静かな夜。居候が一人いないだけで家内はどこか精彩を欠く。ディエゴは決して賑やかな人間ではないのに、そう感じるのは自分の主観が大いに混じっているに違いない。
ふと苦笑し、マニーは新品同様になったワイシャツをきっちりハンガーにかけた。アイロンがけは料理や洗濯に先行して満足にできるようになった家事のひとつだ。一時期は凝りに凝って、扱いやすいコードレスのものをわざわざ購入してしまった。台の脚を折りたたんでいると、部屋のドアがだしぬけに開け放たれた。

「…マニー」
「な…なんだ?開けるんなら声くらいかけろ」

シドに行儀作法を期待してはいないが、このくらいは普段であればできていたはずだ。よほど急ぎの用なのかと身構える。しかし入ってきた青年は神妙な面持ちで、アイロンセットを片付けるマニーの挙動をただ見ている。

「シド?どうした」

思わせぶりに部屋の真ん中で突っ立っていられても迷惑だ。顔を覗くと、シドは腹を据えたように顎を上げた。

「マニーってさ」

意志的なこの眼は一度見たことがあった。当時の衝撃が蘇って頭が熱くなりかけ、懸命にそんな雑念を振り払う。

「あ、ああ」
「あのさ。一人で致したりとか、すんの?」
「…いたしたり?」

シドは至って真面目な表情。マニーは意味を量りかね、特に不明な単語をおうむ返しに言った。
もっとも。意味は判らないが、胸の内ではすでに警鐘が鳴り響いている。

「うん。やっぱそれも無し?マジで不感症?」
「――いろいろ言いたいことは山積みだが置いておく。そういうこと考えて、わざとノックもしないでドア開けたのか」
「そうそう。もしかしたらアンタのあられもない姿が見れちゃうかもーなんて?」

あられもない姿って何だ。訊かないが。

「脳が湧いてるんじゃないかお前。最近普通じゃないぞ、前にも増して」

マニーとしてはこの怪しい会話をさっさと打ち切ってしまいたかった。普通、こうも堂々と問われていい話題でないのは明瞭だ。逃げるように部屋を出ようとしたが、しかしシドは尚も問いかけで引きとめてくる。

「待ってよ。最近っていつ?」

ぎゅっとすがるように腕まで取られる。言葉じりにつけこまれる形になり、マニーは当惑した。

「ねぇ。いつ、どういうことを指してる?」
「どういう、って」
「……オレが男に告白したこととか?」

見上げてくる双眸が帯びる真摯な色。互いを囲む空間までが、きしりと張り詰めたようだった。

「…そうだ」

諦めて肯くと、シドもわずかに顔を和らげる。それでも手のひらに込められた力は緩まない。すがられていたはずの腕は、今や捕らえられたも同然だ。

「本気だよ。オレ」
「それは、聞いた」
「うん。で、理解した上で受け入れてくれたんだよね?」

楽に出せた結論ではない。始めは本気をうたがい、次は正気をうたがった。けれど嫌いではない。傷つけたくない。望むことは叶えてやりたい。つまりは自分も同じ気持ちなのだと。腹をくくったのは他でもない、マニー自身であった。 この眼を初めて見たのもそのときだ。

「そうだ。だからどうした?それとこれと何の関係がある」

内容そのものは睦言めいているのに、羞恥をごまかすため口調が苛々となじるようになってしまう。シドは珍しく気まずそうな様子で、言いよどむ。

「…だから、さぁ。オレだって年頃の健全な男子なわけですから」
「ああ」
「要するにね。したいの。エロいことが」
「は………?」

たっぷり時間をかけてようやくその意図を理解し、未知の恐怖におののいたマニーはシドの手を必死で振りほどいた。

「ふ、ふざけるな!無理!ぜっっったいに無理!!」
「てことはなに?オレたちはずーっと健全な清いお付き合いをすんの?」
「え、あ、それはだな、まぁ」
「言ったよね、ライクじゃなくてラブだって。オレね、マニーが好きなの。性的に」
「…わ……判ってる。けど、こここ…こう、ほら、段階ってものがあるだろ!?」
「段階?まずは交換日記から始めましょうって?」
「う、ぐ」

押し問答は続く。マニーは必死だがシドだって必死だった。ここまできて引くわけにはいかないのだ。選択するなら撤退より譲歩。心理戦ならこっちに分がある。

「……じゃあ。まぁいきなりつっこませてくれなんて言わないから」

当たり前だ、とかなんとか叫ぶマニーの顔を覗きこみ、シドはいっそ爽やかとも表せる笑顔を輝かせた。

「一人でしてるとこオレに見せるか、オレのしゃぶっ……!っご、」

みぞおちに鈍痛。コンパクトではあるが十分な重さを持つ、見事なボディーブローである。
心理戦ならともかく、腕力で分があるのは完全にあっちなのだった。

「言葉には気をつけろ変態。次はボディじゃ済まさないぞ」

崩れ落つシドへ冷ややかに告げ、マニーは丸まっている彼に背を向けた。貴重な余暇を不毛な口論に費やしてしまったことに息を吐く。

「――…あんたじゃなきゃ」

ため息にかき消えそうな声。しぼり出すようなそれが耳に触れ、マニーは嫌々振り返る。

「あんたじゃなきゃ勃たないって、言ったら?」

廊下に踏み出した片脚が硬化した。
やめろ。そんな言い方するな。口は動かず、もう差し止めることすらできはしない。

「オレだって、不本意なんだけどさ?どうしようもないんだよ」

こんなことばをこうも痛感するのはお互いに初めてだった――惚れた弱み。

「切実な問題なの。相手があんたじゃゴーカンもできないし」
「ごうか…」

そりゃそうだ。こんな奴に黙って犯されてやるわけがない。というかできるならするつもりなのかお前は。
言いたいことは山ほどあったがどれから言ったものかがさっぱり判らず、頭痛がする。
どこで間違ってしまったのだろう――
おそらくはシドを保護してしまったことが、最初から誤りだったのだ。

「……わかった。やって、やる」
「うんでもさぁ、…へ?……うそ?ほんとにっ!?」

早くもみぞおちの痛みを忘れたらしい、シドはきらきらと瞳を輝かせて体を起こす。しっぽがあったなら、きっと千切れんばかりに振られていた。

「あーやってやる。やってやるさ。お前なんて、どうせ持っても五分だろ」
「うわあ屈辱!」

はははは、とマニーは口先だけで高笑う。自らを鼓舞しているのかただの捨て鉢なのか、心境は真っ白で区別がつかない。

→後