湿って鮮やかさを増した色とりどりの衣類やタオルの遥か先、抜けるような青空。気温こそ低いものの吹く北風は弱い。絶好の洗濯日和だ。別段好きではない仕事だって環境がよければ気分も違う。Tシャツがひっくり返ったままだろうとその胸元に赤っぽいシミが付いていようと、今日は大して気にならなかった。どうせ着るのはシドである。奴にあるのは女性的な甲斐甲斐しさであって、潔癖さではない。これが口紅だとかそういったものならマニーの心境も違っていただろうが、何のことはない。一すじ、大方ソースかジュースでもこぼしたのだろう汚れだ。

「だいいち、あいつは食い方が汚い」

テーブルマナーを身につけろとは言わないが、もう少し行儀よくできないものか。

「食べてる時までべらべらうるさいし…よく疲れないよな、いつ口を休めてるんだ……ったく、せめて白は着なけりゃいいのに。汚すなら汚すで」

ぼやきながらハンガーにかけたシャツは白地の前面に大きなプリント。しかもプリントは女物みたいなキャラクターデザイン。改めて確認する趣味の違いに、マニーは苦笑いした。

「一度服を交換させたら面白いだろうな」

横で揺らめく黒のVネックカットソーはディエゴのもの。首に何か巻きついているのが好かないとかでマフラーもしたがらない男だが、それもまたマニーには理解できない嗜好である。

「あれで寒くないのか?見てるこっちが寒いんだが」
「なにがそんなに寒いって?」

問われてマニーは振り返る。

「いつもそうやって言ってんのか、ひとりごと」

開け放したガラス戸のサッシをまたいだ向こう側に、買うものがあると家を出ていたディエゴが少々意地悪い笑顔で立っていた。着こんだ細身のレザーブルゾンは似合っているけれど、やはり寒そうだとマニーは思う。

「べつに、いつもじゃない。お前こそ勝手に聞き耳立てるな」
「自分の部屋へ入るのにノックはしないだろ。たまたま聞こえたんだ。なぁ、ドライバー使わなかったか?」
「ドライバー?…あ」

怪訝な顔をしたマニーだが、すぐに記憶から心当たりを見つける。いつだったか、眼鏡のつるがぐらついてきたのを直すとき使った。
空になった洗濯かごを持ち、ベランダから続くディエゴの部屋に入って窓を閉めた。待ってろと言い置きついでに洗濯かごもその場へ置き去り、急ぎ足で自室のデスクを探る。はたして所定の位置はリビングであるはずのドライバーセットが片隅にあった。共用道具を元に戻さないなんて、シドからだらしなさが伝染しているのだろうか。密かにそんな責任転嫁をしつつも戻ってディエゴにそれを渡した。

「サンキュ」

軽く礼を言い、彼はベッドの上ではなくその脇へもたれかかるようにカーペットへ腰を下ろす。指先で抜き出されたのはマイナスドライバー。

「何に使うんだ」
「フリントを換える」
「フリント?」

耳慣れない単語をくり返したマニーを振り仰ぎ、ディエゴは傍らにあるナイトテーブルから愛用のオイルライターをつまみ上げた。

「着火石のこと」

なるほど。喫煙習慣がないためライターとの縁も薄い。当番だった洗濯が終わって他に用も無いので、ベッドに腰を落ち着けディエゴの頭上から様子をうかがう。

「中身が取り出せるのか」
「そう。こっちにオイルが入ってる」
「オイルも補充が必要なんだろ?」
「もちろん」
「ふうん……。けっこう面倒なもんだな」

小さなドライバーを回す手つきはこなれている。仕付けた作業なのだと見て取れた。
マニーはがらんどうになった真鍮製の外ケースを拾い上げ、しげしげ観賞してみる。ヘアライン仕上げの銀白色は細かな刻印があるだけのシンプルな無地で、午後の光を鈍く映しだす。表面のキズや凹凸も味といえば味で、その金属はしっくり手になじんだ。

「貰い物だろ。これ。お下がりか?」

かねてからの推察から、そう訊ねた。ディエゴが顔を上げる。
見開かれた双眸に浮かぶ驚きと、ごく微量の警戒心。

「どうして判った」
「どうしてって……いや…。かなり、使い込まれてるみたいだから」

なんだそんなことか。鋭さを収めたディエゴの瞳が呟く。笑んだ唇のぎこちなさ。嘘が巧い彼にしては最悪の出来だ。マニーが不審を抱いたことにも気づかない。

「ただの使い古しじゃないぜ。これで一応ビンテージ品」

このオイルライターには多くコレクターが存在するとか。喫煙習慣は無くとも、その程度なら知っている。
ビンテージとあらばそこそこいい値もするのだろう。が、マニーの関心はすでに骨董品から離れていた。

「誰からもらったんだ?」

はぐらかそうとしたってそうは問屋が卸さない。逆に好奇心が湧くばかりで。
一瞬は迷いを覗かせたディエゴだったが、追及するマニーから外ケースを受け取りそこに新たなフリントストーンの入った内ケースをはめ直し、さりげない調子で答えてくれた。

「元上司」

主の声よりよほど大きく自己主張する甲高い音。火花が散り、独特のにおいと共に炎が揺らめいた。幾度かそうして着火の具合を確かめ、弧を描く口元。肝心の煙草をくわえようとしないのは、外に並ぶ洗濯物のためだろうか。

「聞かなきゃよかったって顔してるぞ」
「だから?」
「べつに。でも、深い意味は無いからな。使い慣れてるから使ってる。それだけだ」

立ち上がってライターをデニムのポケットに入れたディエゴを、マニーは睨んだ。

「嘘をつくな」
「嘘?」
「お前の、そういうところが食えない」

ディエゴは嘘が巧い。自分たちの関係も虚言から始まったくらいで。シドと二人してずっと騙されていたのだ。こみ上げてくる感情は、あの日味わった悔しさにも近かった。

「どうしてこれが貰い物だと思ったか教えてやろうか。お前がそいつを、大事そうに使ってるからだ」
「……大事に?俺が?」

どうにもわからない、とばかりに片眉を上げた表情に気が尖る。頭の切れるやつなのに、今回ばかりは救いがたい愚鈍さだ。

「だってそうだろ?使い捨てで事足りるものを、石を換えたりオイルを入れたり、こんな面倒なものをマメでもないお前が使い続けてるのは、なにか、思い入れがあるからじゃないのか?」

言い立てるマニーを、ディエゴは瞬きして見つめていた。

「そう…、か。……そうだな」

嘘ではなしに全く自覚がなかったのか、得心がいった様子でディエゴは頷いた。湧き上がったもののやり場を失くしたマニーの苛立ちは、歯がゆさや切なさに変わり行く。
ディエゴは嘘が巧い。ディエゴ自身まで欺けてしまう。
捨てられないものや振り払えない痛み、弱さを見せたくない気持ちは判るしお互い様だが、でも――。

「――本当の親父みたいに思ってた、こともあった」

不器用な舌をどう動かしたものか、考えあぐねるマニーの肩が揺れる。
それだけ慕っていた人間を一口に「元上司」とは。うそぶいたもんだ。やはりまだまだディエゴは食えない。

「ガキだったからな。もらった時は、嬉しかった。……いてっ」

けれども懐かしそうに微笑んだ横顔は隠しようもなく哀しげに見えたから、その背を強く叩いていた。力が入りすぎてしまったようで、よろけた彼は憮然とする。

「マニー、励ますつもりならもっとソフトにやってくれよ」
「そうしてほしいならもっと判りやすく弱音を吐け」

強がってるのはお互い様だろ?ひらり、さりげなく聞こえてその実、含みが潜んだ音。
聞こえなかったことにして、マニーは洗濯かごを持ち上げた。