日付けが変わり、他ならぬバレンタインデーの午前零時過ぎ。帰宅したディエゴは珍しくもあからさまに疲れた顔をしていたらしい。まだ起きていたシドはもちろん、どうしたのかと訊ねたそうだ。

「お客さんにね、押し付けられたんだって。チョコ」

かじったトーストが食道につっかえそうになった。慌ててコーヒーで流しこむ。今度は舌を火傷しそうになっているうちにキッチンから近づいてくる、ぶすくれた声。

「全然うらやましくなんかないぜっ?いくつかはメアドとか電話番号付きだったらしいけど?全然。ぜんっぜん!!」

エプロンを外してどかりと隣へ座ったシドを、マニーは横目に見やる。よくぞ朝っぱらから食欲の湧く話題を提供してくれたものだ。デザートのオレンジまではとても完食できそうにない。 本人から事情を聞きたいところだがディエゴは食卓について居ず、未だ眠っている。今日は休みなので昼までは起きてこないだろう。

「それで?そのチョコはどうしたんだ?電話番号は?これを私に話せとでも、ディエゴに言われたのか?」
「いっぺんに質問しないでよ。えぇっと、チョコはオレが食べた。まだ残ってるけど。ディエゴは食べないから」
「電話番号は」
「それがさぁ、どうすんのか訊いたら捨てるとか言うんだよ!?それはマズくないかって止めた」

相槌の打ち方が判らなかったマニーはともかく機械的にサラダを口に運ぶ。
そんなもん捨てさせとけ、というのが忌憚なき本音であるが、それでは相手があまりに気の毒だ。引きとめたシドの真心は恨めしくも好もしい。

「でね。マニーには余計なこと話すなよって、釘さされたんだよね」

手を止めて首をひねる。話してるじゃないかおもいっきり。

「あれ?余計なことだった?マニーにとって?」

伸びた手が皿から櫛形のオレンジをかすめとって行く。もうそろそろ家を出なければならない時間だ。
にまと笑った顔は、何がそんなに楽しいのか。マニーはダイニングチェアを粗雑に引いた。


今年はどうするべきだろう。
パティスリーの店頭やテレビコマーシャルが華やぎ出したここしばらく、頭の片隅でずっと思案していたのに。去年と同じく収穫高の少なさにかこつけることは、しかし今年は非常にやりにくくなってしまった。喜ばしいことではある。むしろ内輪からたった二つだなんて、昨年までの方がおかしい。ディエゴの価値と釣り合っていない。敵ながら見る目があると、顔も知らない女性たちに頷く。
例年通り職場では自身もそれなりに貰う側になるものの、マニーの気は一日中そぞろだった。上の空状態にあってチョコレートをくれた相手の名前を逐一控えておくことに、とにかく苦労した。

帰りの道中。あるいは気のせいかもしれないけれど、周りはカップルが多いように感じる。一日中悩んで悩んで、電車に揺られる頃にはマニーの腹も決まっていた。
べつに自分がやる必要はない。
甘い菓子自体を嫌っている相手なのだから、それに関わらず贈りたいなどと考えるのは、結局ただの自己満足でしかない。そんな結論に辿り着いていた。
いまさらそんなことをする間柄でもないしな――。さんざん悩んだ自分を滑稽にすら思った。


帰宅して早々、顔を合わせたディエゴの態度はいつもと全く変わらなかった。今日はシドの帰りが遅いので二人だけで夕飯を済ませ、たわいない会話を交わし、順に入浴を済ます。静かに夜は更けていく。
平常と同じように。少なくともマニーには、そう受け取れた。

「……マニー?入るぞ」

背後のドアが開く音で目が覚めた。入浴後自室の椅子で読書を始めたが集中できず、数ページも繰らないうちに、うつらうつらしてしまったのだ――反射的に確かめた時計の針。零時を間もなく回ろうとしている。

「寝てたのか?」
「…ああ……。ちょっと」
「下で読んでりゃいいのに」

おそらくお見通しなのだろう。ディエゴが風呂から出る前に、意図して部屋へ引き上げたことを。
横に立たれたので、やむなく首を回した。

「今年は無いんだな。くれるもの」

何かと思えば。忘れかけていたものを蒸し返され、マニーは眉をひそめる。

「シドが話したんだって?」
「そうだ。悪かったな。余計なこと聞いて。私がやらなくてもいいだろ?」
「嬉しかったんだけどな。お前がくれんなら」

あけすけに伝えられて唖然と視線を上げれば、ディエゴは穏やかに笑っていた。いつもの不敵な笑顔ではない。こういう言い方ができる神経を疑う。とても自分には無理だ。

「まあ、なんて言っても仕方ないからな。今年は俺が、お前にやるよ」

ますます状況が飲み込めなくなった。夢を見ているわけでもない。
差し出された小箱に焦点を固定したマニーの目が、ゆっくり幾度もしばたく。

「ほら。食ってみろ。今日のうちに」

不思議な心地で箱を受け取り、ラッピングをおそるおそる取り去る。中にはそれぞれ態の違うチョコレートが、宝石のように収まっていた。

「…これ」
「気に入ってただろ?去年」

シドに店の場所聞いて買ってきた。
容易くこぼすけれど有名ショコラトリー謹製のボンボンショコラは、ここら近辺で売っている代物ではなさそうだ。 昨年勤め先で貰った折に味わい、ディエゴが言う通り気に入った。それでも、マニーだって自ら進んで甘味を摂取する方でもない。今の今まで思い出しもしなかった。
一つを選んで口に入れる。フルーツやハーブの新鮮な香り。独特の風味を舌は覚えていた。

「……美味い。…あ、ありがとう、な」

溶ける濃厚な甘みと共に、じんわり胸に染み入るものや、込み上げてくるものがある。嬉しさに頬が緩む。気恥ずかしさにめげず、せめてもの礼を述べた。

「礼なんざいいよ。それより、俺にも食うもの食わせてくれるよな?」
「お前に?」

チョコレートが食べたかったのか?欲しいなら欲しいだけ分けてやるけど。
訝って顎を上げたときには目前に金瞳が迫っていた。頭を引いたが襟足を押さえつけられて、噛みつかれた。ほんわか温まった気持ちが現実の流れに付いていけない。舌を押しこまれて口内を弄られて、果物や香草、砂糖の余韻が塗りつぶされる。

「……っら、らいげつ、だろ?返すのは…!」

隙を縫って抗する舌がもつれた。相手は相手で後味悪そうにあまい、などと呟いている。

「来月は来月で、別腹だ」
「それこそ甘いものの話だろ!」

けれど今夜は仕方ないかとさっそく譲りかけている自分がいて、それだってディエゴはお見通しなのだろう。
そういうのが悔しくて、きまり悪くて、心地良い。