大ぶりのサバイバルナイフ。とても素人のじじいが使いこなせる得物じゃないが、避けきれなかった。逆手に柄を握って振り下ろされた刃先は、俺の心臓へまっすぐ狙いを定めていた。そんなものを取り出すなんて思ってもいなかった、なんて言い訳にもなりやない。
やむなく体をひねった。痛みを感知するより、男の腹に膝をめりこませるのが先だった。あっさりくずおれた襟首を掴み、無造作に頭を振った。額にぶつかったものが張り合いなく砕けた。鼻血にまみれた顔面。とどめに加減せず蹴り上げた。血しぶきを散らし、男は真後ろに吹き飛んだ。


「――ねぇだろうにな、歯医者にかかる金なんざ」

大きく息を吐く。ようやく正常に機能し始めた鼓膜が真っ先に拾ったのは、哀れむでもなく嘲るでもなく、
一滴ほどの蔑みをにじませた平板な声。

「ディエゴ。ドジったな」

感情を窺わせない視線がそのまま俺の腕へと滑る。
気を失った男に吐き捨てたのとまったく同じ調子でオスカーは言った。

「おい、どうにかした方がいいんじゃねえのか?それ…」

レニーは意味もなくそわそわと周囲を見回す。俺を案じているというより赤く染まりゆくシャツを見ていられない、そんな風情。返事はせずに薄汚れた室内を見回した。白々しい明かりに照らされているにも関わらず、一帯にはどす黒い静寂の影が落ちている。仰向けに伸びている中年男。鼻が潰れ、赤く沈んだ顔――人相はもうよく判らない。開いた口、前歯が欠けているのはかろうじて確認することができた。
意地汚く狡い小悪党だが俺たちとは立場が違う。大きな問題を起こす度胸も無いはずだが、近ごろ動向に違和感があった。様子見をかねて脅しをかけ、今夜取り立てられるだけの金を取り立てて戻る、単純な予定。 それが狂った、いや。むしろ事態は都合のいい方に向かうと踏んでいる。

「大した傷じゃない。ジーク!そいつを連れてこい」

左の二の腕――利き腕ではない。指先も動く。どちらにしろ救急車を呼ぶなんてことができるわけでもなく、まともな処置はこの場でとれない。
右手できつく傷口を押さえながら呼べば、猫背の男がこっちを睨む。幽鬼のように青ざめた顔に、爛々と輝く瞳が浮いていた。こいつがこんな目をするのは弱者を痛ぶっているか薬をキメているかのどちらか、もしくは両方のときだけだ。

「うるせぇな、偉そうに言うんじゃねえ」

ぼやきながらもジークはナイフの刃を閉じ立ち上がる。

「オラ、立て!」

ジークの足元――右のまぶたが腫れ、頬に朱線が刻まれている他は外傷のない男――が身じろぐ。まだ元気が有り余っているらしい、引きずり起こされてくるあいだ、やかましく俺たちを罵っていた。
膨れ上がったまぶたの奥、血走った両目は屈辱に燃えている。

「黙れ。お前もこうなりたいか?」

そう告げ、俺が顎で示した先。変わり果てた仲間を前に、その炎はあっけなく吹き消えるのが見て取れた。 こうでなければ意味がない――普段の俺なら顔を狙うような効率の悪いやり方はしない。
するとすれば見せしめにするため。それ以上でもそれ以下でもない。効果はてきめんのようだった。男は全身を震わせ始めている。

「……助けてくれ…」
「お前も俺を刺そうとでもしてみるか?上手くいけば金も、鼻の骨も無事で済む」
「しない、そんなことしない、か、金なら渡します…だから……」

二の腕から悪寒が広がる。仲間なんかじゃない。懇願する男は、ぴくりともしない中年の安否などこれっぽっちも気にしてなんかいなかった。自己保身のみを考え、卑屈に許しを請うている。
他人と自分の血に濡れてなお泰然と笑ってみせる俺の姿は、男には獣と大差なく映っているに違いない。

「オスカー」
「判ってるよ」

前に踏み出すオスカーとレニーに代わり、俺は壁際まで後退した。血はまだ止まらない。気休めにでも傷口を縛るなりするべきなのだろうが、億劫だ。煙草を取り出し火をつける。赤く濡れた手が鬱陶しく、目の奥が痛んだだけだった。

「なぁディエゴ?」

男と共に二人は奥の部屋へ消えた。残ったジークが再びナイフの刃を開く。落ち窪んだ眼窩が、俺を上目遣いに捉えている。

「なんだ」
「あの野郎、マジであのまま見逃してやるつもりか?テメェがあんま痛めつけるなって言うからよ、ほとんど手出しちゃいないんだぜ?」

変態じみたサディスティックな欲望。あの程度では満たされないだろうと、もちろん理解していた。
煙を吐き出す。ジークは一心に俺の顔色をうかがっている。意識を取り戻すのはまだ先だろう中年男のたるんだ頬が、ひくりと痙攣するのが見えた。
俺にナイフを向けてまで守ろうとした金。何に使うつもりだったのか。それを仲間はあっさり投げ棄てたと知ったら、どんな風に嘆くのか。
半分が灰になった煙草を落とし、つま先ですり潰す。

「好きにしろ」
「あぁ?」
「俺たちは先に戻る。それでいいなら、お前は好きにすればいい」
「……いいのかよ?」

探るような目つき。いつもの俺なら止めている、そう言いたいのだ。

「殺しさえしなけりゃいい。あいつもこのじじいと同じ目に遭わせてやれよ」

にやりと笑ってやった。不審げに曇っていたジークの顔に、嗜虐の笑みが浮かぶ。これできっとあの男は死んだ方がマシだと思えるような目に遭わされるだろう。二の腕の悪寒は腹のあたりにまで広がっていた。

「ディエゴ」

首へ押し当てられた冷気。腕をえぐったそれより、ずっと小さく薄い鋼の感触。

「お前も切り刻んでやりてぇなぁ」

夢見るような呟きに見え隠れする狂気、それを上回る臆病さ。腕一本でもジークには負ける気がしない。恐れなど無かった。遠ざかる刃を俺は黙って見送った。