駅から家への道中に鉢合わせ(あくまで偶然であり、待ち伏せされていたのではないと信じたい)連行と呼ぶに相応しいやり方でシルビアに引っぱり込まれたのは、こぢんまりした喫茶店だった。好んで行き来する道すじからは逸れていることもありマニーは初めて入ったのだが、落ち着いた雰囲気は悪くない。利用する客層が違うためか駅前のコーヒーショップとは違い、夕方の店内は貸しきりのようになっている。おかげで二人連れでも窓際の広々したボックス席に陣取ることができた。

「いやー、『静かな場所に行きたい』なんて言うから驚いたよ。ホテルにでも連れこまれるんじゃないかって」
「あなたでもそんな冗談言うのね」

ぎくしゃくした空気を和ませるため、あるいは自分の緊張をほぐすためのジャブは空振り。シルビアはたたんだ上着を脇に置き、にこりともせずメニューを眺める。

「あたしが奢るから。何にする?」
「え?そんな、いいよ」
「あたしが誘ったんだから奢るわよ。何にするの?」
「いや、だからって君に奢ってもらうすじ合いは」
「煮え切らない男ねぇ。じゃああたしと同じものね」

自分たちは茶飲み友達なんかじゃないという無言のアピールらしい。友好的な談笑は望むべくもなかった。どうして捕まったのがシドではなく自分なのか。差し向かいで座るには辛すぎる相手だ、家に帰りたい。
マニーは慣れない愛想笑いを崩し静かに嘆息する。
それからウェイトレスが注文を取り姿を消し、再度やってきてカプチーノを二人分テーブルに載せるまで、一言たりとも会話を交わすことはできなかった。

「マニー。今日こそはっきり言わせてもらうわ、あのね。解せないのよ」

カップに一度だけ口をつけ、場が整うのを待ちかねたようにシルビアが本題を切り出した。その表情と声、彼女を取り巻く空気は重苦しい不満に満ち満ちている。
解せないというならこの瞬間このシチュエーションの方がよっぽど解せない。マニーは切なる叫びを、泡立つエスプレッソで飲み下す。

「あなたねぇ?シドとべたべたしないでくれる?一緒に住んでるってだけでも許したくないのに!何なのよあれ!?」

こぶしを握って息巻く彼女の剣幕は恐ろしいほどだが、恐怖など忘れた。ほろ苦いコーヒーにだって押し流せない主張はある。

「話ってのはそんなことか?してるはずないだろ!夢でも見てるんじゃないか?」
「嘘よ。この前だってしてたもの。ほら、あなたが家に帰ってきたとき、玄関で!」
「は、はぁ…?」

帰ってきたとき。玄関で。べたべた。
断片をたっぷり復唱し反芻して、シルビアが示す行為の見当がついた。彼女の目前であったかは定かじゃないが自分の帰宅時、出迎えたシドが抱きついてくることならばたまに、よく、しばしば。あるような。そういうのを指して彼女は怒っているんだろうか?

「それ、あいつが私にくっついてくるのを言ってるのか」

確認は火に油だった。

「くっついてくる?!黙ってくっつかせてる方にも問題があるのよっ!」
「いや、だって、誰相手にだってこんな調子だろう。あいつは」
「あたしを除いてね。そこはもういいの。他の人は、同棲までしてないから」
「同棲って表現はかなり語弊があるぞ……。でも、じゃあ、私と同じ条件のやつがいるじゃないか。もう一人」
「ディエゴもまだいいのよ。黙ってシドをくっつかせてたりしないから。あなたと違って」

「あなたと違って」に敵意のこもったアクセント。怒りの矛先の分散には失敗のようだ。自身とディエゴとでシドの扱い方が異なるのは否めないので、マニーとしては黙るしかなかった。違う方向からの鎮火を試みる。

「…なぁシルビア。前から言いたかったんだが、シドはやめたらどうだ?君にふさわしい男なら他にいくらでもいる。あいつ以下の男を捕まえる方が難しいくらいだ」

至極真面目なマニーの進言を聞いたとたん、シルビアはびっしり並んだまつげと綺麗に描かれた眉を同時に跳ね上げた。

「あら、やだ。それ、あたしを口説いてるつもり?」
「違う」

相手が同性であれば一発殴っていたと思う。しかし即座に否定するのはあまりに不躾だったと、一瞬遅れでわずかな心苦しさも生まれた。慌てて侘びを口にする。

「そ、そういう風に聞こえたんなら、すまなかった」
「やぁね、判ってる。本気で言ったんじゃないわよ」

本日初めてシルビアが笑った。ただし鼻で。
女の子には優しくしなさいと親にはしつけられたものである。こういう場合にもその教えを守り通さなければならないのだとしたら、男というのはなんて損な生き物なのだろう。

「……でも、本当よね。シドなんかよりいい人は星の数ほどいるかもね」

沸き上がる怒りを必死で押さえ込んでいたマニーは、打って変わって落ち着き払ったシルビアの声にぎょっとした。
見れば伏せられた瞳は愁いをのせ、艶めく唇は微笑を形作っている。切なげな面持ちだ。華やかなネイルアートに飾られた長い爪が、カップの取っ手をもてあそぶ。

「シドなんかね。達者なのは口だけだし、顔が特別いいわけじゃないし?貧弱で頼りにならないし浮気者で誠意を知らないしトロくてどんくさいしズボラでだらしないのよルーズで。ちゃらんぽらんだしデリカシー無くて空気読めないし」
「お、おい?」
「ろくでもないって言うか。いいとこゼロよね」
「まま、ま、待ってくれ。いいとこゼロは言いすぎだ。あいつにだって、一つや二つ美点はある」

自分になびかない相手を罵倒したくなる心情はマニーとしても理解できなくはないけれども、ここまでの好き勝手は聞き捨ておけない。なんとなく。

「……ふうん。どんな?」

むくれたように口を尖らせる仕草は、彼女の想い人を連想させた。

「どんな?口先はそうだが手先も器用だろ、シャツのボタン付けてくれたりして助かってる。君なら知ってるだろうけど料理も上手いよな。意外と朝に強いのも感心する。ああ、一番感心するのは物事をいつも前向きに見てるところかな、あの姿勢は見習いたい。それと人を悪く言ったりしないところも。思いやりがあるよな?やっぱり他人を思いやれるのは人間として大事なことだと、」
「――それ。それよ。それだわ!」

はたとシルビアが目を見開いた。マニーの熱弁を半分ほども聞いていたか怪しい。

「それ?どれ?」
「あなたに有ってあたしが持ってないのはそれよ、そのスキルよ!いい、ちょっとやってみる。――べつに、あたしシドのことなんて好きじゃないんだから!勘違いしないでよね!……っ、こうかしら!?」
「こ、こうかしらと言われてもな」

ひとりで張り切りだしたシルビアに怖じけて肩を引き、宙を泳いだマニーの視線。ぴたと不自然な方向で固定された。広い窓を隔てた向こう。そこに居てはならない人間が、にやにやしながら立っている。
遅れてシルビアもその姿に気づいたようだ。二人して言葉なく、店に駆け入ってくる彼を待つのみ。

「やっほーお二人さん!こんなところで密会とはやるねぇ!すみに置けないんだからぁ!!」

閑散とした空間に、その大声はよく通った。

「シドっ…!違う!誤解だ!」

たまらず立ち上がったマニーの肩を、シドはテーブルの横からぽんぽん叩く。

「無理しないでマニー。照れるなよ」
「なに嬉しそうにしてるんだよバカ!おい、シルビアからも言ってやってくれ!」
「そうよシド!あたしがお茶してたのよ他の男と!?もっと他に言うことあるでしょうが?」
「違うだろ。否定をしてくれ。私たちの関係の」
「いいんだよシルビア…ボクのことは心配しないで。マニーなら、きっと君を幸せにしてくれる」
「いやよそんなのっ、マニーはただのお友達!っていうかライバル!?あたしが好きなのはあんたなの!」
「どうして私がふられたみたいになってるんだ?!…ライバルってのも……!」

けたたましい舌戦は、可愛らしいウェイトレスによる「他のお客様のご迷惑になりますので」とのありがたいご指導が入るまで延々続いた。
悪くないカフェだった。けれどこれがマニーにとって、最初で最後の来店になってしまいそうである。

おまけ?