(リクエスト:仕事帰りにはち合わせて遊びにいくディエシド より)

今日の夕飯マニーは食べない。オレとディエゴだけなら冷蔵庫の残り物だけで間に合うか、でも明日の朝メシがないんだよな――。職場からの帰路、そうやって献立の検討でいっぱいだった頭をはたかれた。目を白黒させて、シドはふり向く。

「び、びっくりしたー!ディエゴかぁ、なにすんだよもう!」
「声かけてんのに気づかないからだよ。ぼさっとするな」
「オレは晩メシのこと考えてたの!一生懸命!」

近しい者同士、顔を合わせたそばから言葉の応酬はすらすら始まる。
このまま一緒に帰宅するのもいい。しかし外でたまたま好きな相手に出くわすというのは嬉しいもので、シドとしてはまっすぐ帰ってしまうのはもったいなく感じた。

「せっかく会えたんだし外で食う?てかさ、どっか遊びに行くのは!?行きたいとこない?」
「行きたいとこ?べつに……腹へったからメシが第一だろ。で、そのあと行くならホテル」
「……ディエゴのそういうとこ、好きだけどさ。もうちょいさぁぁぁ」

ここで「じゃあカラオケ行こうぜ!徹カラ徹カラ!」などと盛り上がってくれる男じゃないのは知っている。こっちだって回りくどいのは苦手だが、こうもあっさり休憩だか宿泊だかに誘ってくるのはいかがなものか。多少のワビサビも必要ではないか。

「じゃあお前は?どこ行きたいんだ」

面倒くさそうに問い返され、シドはすこし考える。

「うーんと。…………オレはさ。遠出したい。旅行みたいな」
「旅行?」
「うん。いいじゃん?どっか連れてってほしーなー、なんて?」

当然ながら、言ってみただけだ。一蹴されるだけなのは承知の上だった。ディエゴは黙って歩き出してしまう。

「あ、置いてかないでよー!」

呆れて家に向かおうとしているのだと思ったが、違う。横道を出て、車の行き来が多い表通りでディエゴは立ち止まった。どうする気なのか。訊ねる前に彼が指したのは、いい具合にこちらへ曲がってきたタクシーだ。

「あれ乗るぞ」
「はっ?え?行き先は?」
「お前が行きたい場所だろ。とっとと決めろ」

慌てふためくシドなどお構いなしに、ハザードを出してタクシーは歩道に寄ってくる。

「うわわ、行きたい場所ー!?」

従順に二人の手前で停まったその空車。ディエゴはさっさと後部座席に乗り込んでしまい、シドも後に続くほかない。

「どちらまで」
「まだ決まってないんだ。とりあえず高速にのってくれ」

曖昧な要求に運転手はちらと怪訝な表情をのぞかせたが、やはり従順に車を発進させた。悠々とヘッドレストに頭を預けたディエゴの横で、シドは浅く座席に座っている。

「ディエゴ」
「なんだ」
「……なんでもない」

よそよそしい車内のにおいと着々と数値を増やし始めた料金メーターが、気になって気になって落ち着かない。
ディエゴは冗談でやっているのだ。そろそろこの辺でタクシーを止めてくれるに違いない。そう信じるよう努めても、走り去っていく見慣れた風景は冗談じゃない。本物だ。太陽もほどなく没しようとしている。
行き先が決まらないままに、車は本当に高速道へ入ってしまった。そのころにはシドの感じる居心地の悪さは、妙な心細さに変わろうとしていた。
街中の一般道とは比べものにならないスピードで遠のく、なんでもない日常。
代わりにあるのは目的地もなくタクシーを拾い、走らせているという、この非日常。
嘘みたいな状況だ。
本当に旅行へ行けるのならば楽しいに決まっている。しかし何の準備もしてきていない。マニーは仰天するだろうし、明日だってお互い通常通りに仕事がある。突発旅行を実現させるのは、難しい。

「ディエゴ」
「なんだよ」
「なぁ。もういいよ。帰ろうぜ?」

シドがそう言い出すのを予期していたのかもしれない。首をめぐらせたディエゴは眉ひとつ動かさなかった。返事らしい返事もせず、この先のパーキングエリアで降ろしてくれと、運転手にシンプルな指示をした。

釣りはもらわず乗車料金を支払い、ディエゴは乗るときと同様さっさとタクシーを降りて行く。シドはもたもた要領悪くそのあとを追う。
狭い駐車場を横切り、いやに明るい公衆トイレを横目に、休憩施設へ。自販機の列、小さな売店。特に目新しいものもない。唯一楽しませてくれそうな軽食コーナーすら、残念ながら店じまいしていた。先導するディエゴは片隅のテーブル席に腰を落ち着ける。

「……あ、飲み物でも、買ってこようか!」
「まかせる」

慌ててシドは先ほど前を通ってきた自販機の列へときびすを返した。まだ気分が落ち着かない。どうして自分たちはこんな場所にいるのか。現実感が希薄だ。
オフシーズン、しかも平日夜間であるから無理ないのだが人影もまばらで、閑散とした周囲の空気はひどく物寂しい。

「ディエゴ、本気だったのかなぁ」

カーゴパンツのポケットから財布を取り出し、硬貨を投入しながら考える。いつも慎重に周到に事を運ぶのをよしとする、あのディエゴが。あんな軽口をきっかけに、本気で旅行へ出かけようなどとするものだろうか?信じがたいが、かといってただのジョークに感じられなかったからこそ、シドは心細くなったのだ。
ディエゴにアイスコーヒー、自分のためにはジンジャーエールを選んだ。缶をやめて紙コップ式を選択したのは気まぐれである。こぼさないよう注意してテーブルに戻ると、ディエゴは眠たげに窓外へ瞳を向けていた。

「おーいディエゴ。駐車場見てんの?楽しい?」

設置された外灯の光量はとても十分なものでなく、ぱらぱら数台のトラックや自家用車が薄闇に沈む姿が見えるだけだ。

「駐車場じゃない。喫煙所だよ」
「あ、そっか。行ってきてもいいよ?」

一人になるのはつまらないけれど吸いたいものを吸えないというのも辛いだろう。気を利かせるつもりで許可してコーヒーを差し出してやったのだが、ディエゴは苦い顔をする。

「ここまで来て俺と別行動したいのか?お前」
「んなわけないじゃん。一人じゃつまんないし。一緒にいてほしいけど」
「なら、よけいな気回さないで座ってろ」

遠慮しても仕方ないので、シドはディエゴの隣に腰かけた。
よく考えてみれば、タバコが吸いたいのなら許可するまでもなくディエゴは席を外すはずだった。無理をして相手に自分を合わせるような間柄じゃない。
ディエゴがここにいる理由は、ディエゴがここにいたいからに決まっている。
嬉しく思いながらジンジャーエールを半分ほどまで一気に飲むと、炭酸による刺激のせいか忘れかけていた空腹が思いおこされた。

「なぁディエゴ。なんで、こんなことしたの?」
「……クソ甘い。砂糖とクリームぬきにできただろ、これ」
「うわっごめんごめん、買いなおしてこよっか?オレも氷なしにすればよかったなー。なんかさぁ、その方がジュースの量増えて、お得な感じするもんね!」
「貧乏くさいこと言うなよ」
「貧乏くさいんじゃなくて、合理的で経済的な考え方じゃん。……と。それはいいから。なんで話を変えようとするかな!」
「お前が勝手にぺらぺら喋ったんだろ」

もっともな指摘に、シドはにししと軽く笑う。やっと肩の力がぬけたような、普段の調子を取り戻しかけているようだ。固い座面の下でスニーカーのつま先をこつこつとぶつけた。

「それで?」

頬杖をついて追究する。
ディエゴはそれ以上口をつけたくないのか甘ったるいコーヒーを端へ押しやり、ぼそりと言った。

「どうせ無理だと思ってたんだろ」
「はい?」
「遠出とか旅行だよ。したかったんだろ?そういうのちらつかせて、なのに無理だって、実はハナからあきらめてるんだよな。お前は」

自分の口元から笑みが消えたのが判る。偽りない希望と、それを打ち消す諦念。シドはしたたかな楽天主義者だが、そのオプティミズムをどこまでも貫けるほどには強くない。

「それが気に入らなかったんだ。行こうとすりゃいつだって行けるんだよ。旅行なんざ」

ディエゴの手が額へあてがわれ、ひとつ前髪をかき上げていった。
後ろむきな気持ちは鋭敏に嗅ぎつけられてしまったらしい。シドに試されたようにも、彼は感じたのかもしれなかった。

「……いろいろ犠牲が出るのはいいの?」
「犠牲?なんだ」
「真っ当なオトナの社会生活に必要なもんだよ。信用とかさ。迷惑だろ?いきなり仕事休んだりしたら」
「なに常識人ぶってんだ。今さらだろ?どうせはみ出し者だ。俺たちは」
「はみだしもの……」

ひどい言われようだとシドの方が呆れてしまいそうになる。構わずディエゴは堂々と、不敵に口端をつり上げる。共犯者の顔だった。

「なーんか腑に落ちないけど。ディエゴも一緒なら、まぁいいや。荒野を行こうぜ!社会不適合者どうし!」
「社会不適合はやめろ。そりゃお前だけだ。……で?そろそろ帰りの心配でも始めたらどうだ?」
「あっ!?そ、そうだよどうすんのさ帰り!マニーに迎えにきてもらう?」
「そろそろ家に帰ってくるころか。『歩いて帰ってこいバカ』とでも言われんだろうな」
「あー……。すごく想像つくわそれ。こんなとこから徒歩ぉ……!?」

シドは真剣にこの場所から徒歩で帰る想像をしているらしい。ディエゴは電話でタクシーを呼ぶなりするつもりなのだが、面白いのでもうしばらくは放っておくことにする。

「ま、せいぜい準備運動でもしてろ。俺はコーヒー買い直してくる」
「オレも!一緒に行きたい!」

ディエゴの傍にぴったりくっつき、シドが携帯端末のスケジュール画面を開いた。

「今度さ、ほんとに旅行しようぜ?ちゃーんと休み取って」
「だな。付き合ってやるよ」

こうと決めたらくよくよ悩まないのが彼らの流儀だ。
今度はきっちり選んだブラックコーヒーと、氷なしのメロンソーダ。飲み干すまでには旅行の日取りも行き先も、決定されることだろう。