むずがゆさを覚え、ディエゴはゆるゆるとまぶたを上げた。

「あら、起きちゃった」
「シーラ……来たんなら声かけろよ」

違和感の原因へ形ばかりの文句をこぼす。彼女が家にやってくるのを待つあいだ、床でごろ寝してしまったようだ。
シドあたりと違い見られて困るものは部屋に置いていない。持たせた合い鍵を使うのはいいのだが、勝手に寝顔を観察されるのは勘弁願いたかった。

「おい。何かおかしいか?」

カーペットから上体をおこして、さっきから横で含み笑いをしているシーラを軽くにらんだ。寝癖でもついているのかと髪をなでつける。

「自分で見てみたら?おかしいかどうか」

そばのローテーブルにポーチが載せてあり、彼女はその中からコンパクトをとりだす。嫌な予感しかしないが受けとって鏡をのぞきこみ、映された自分の顔にディエゴは震撼した。
よくある猫を簡略化してえがいたキャラクター、そんなようなものと同じ趣である。
黒い線が右頬に三本、左頬にも三本。しっかり放射状に引かれていたのだった。

「シーラ!」

誰によるいたずらがきか、問いただすまでもない。シーラももう笑いを隠そうとしていなかった。くすくすとこちらを眺めている。寝起きの頭がいらだちで冴え渡ったものの、ここで怒るのはおとなげない。こらえて、手の甲で頬をぬぐう。

「こすっても落ちないわよ?それ」

細めた瞳の色にふさわしい涼やかさでシーラが言った。忠告通り、手にはほとんどインクの移りがない。
油性ペンでかきやがったか。怒りの増幅を読みとったのか、シーラは犯行に使用した凶器をさらにポーチから抜きとり、そのキャップをあけてみせてくれる。ちょっとした筆ペンのような化粧道具だ。

「アイライナーでかいたの。化粧落とし使えば、きれいに落ちるわ」
「はぁ、そうか」

メイク落とし用の洗顔料なら風呂場に彼女のものが常備されている。立とうとしたディエゴの目的を察したのだろう。シーラはやや高飛車に彼を呼びとめた。

「待ってよ。あれ、わたしのものでしょう。使うなら許可を取ったら?」
「あ?俺の家に置いてあんだから俺のだろ……使うぞ。ほら、これでいいな」
「だめ」

清々しいほどぴしゃりとはねつけられた。
不合理が過ぎる流れに半ば唖然として、ついディエゴは馬鹿正直にも立ちあがるのを中断してしまった。

「写真、撮らせてくれない?寝てる隙に撮るつもりだったけど間に合わなかったから。終わったあとで顔洗って」

白銀を帯びたアッシュブロンドに青い瞳。つめたげな陰影のある美貌に反して、かっとなりやすい性質のシーラである。劣らずディエゴも気の長いほうではない。ここまでキレずに対応してきただけ寛大だったのだ。
言葉をなくしたディエゴに優越を感じたのだろう。彼女はふっと余裕めかし、片耳についた二連のピアスをいじる。

「おにあいよ?可愛いじゃない。にゃんこちゃん」

ささやいてきたシーラこそ、爪の先でネズミをもてあそぶ猫のようだった。

「おまえは、生意気な女だな」

口より先に手が出ていた。
細い腕をつかむ。薙ぐように力をふるい、引き倒す。そこで抵抗を受けたけれど遅い。上にまたがり、うすっぺらい両肩をこちらの両ひざで押さえつけた。

「なに!?やめてよ!どいて!重いじゃない!」
「暴れると痛いだけだぞ」
「だから、早くどきなさいよ!」

じたばたするシーラに罵倒されながらのんびりと手を伸ばし、問題の化粧道具を拾う。大腿のあいだに乳房の弾力があったりもするのだが、幸か不幸か今はそういうセクシュアルな気分にはならない。

「可愛いんだろ、これが?だったらおまえにもかいてやるよ。にゃんこちゃん」
「……その顔で格好つけないで。笑っちゃう」

顔をそむけたシーラはこの期におよび生意気で、しかしこの気丈さが好きだとは思った。

「いい根性だよな。本当に」

それが嫌味なのか賞賛なのかは自身でも判断しかねる。
さておきディエゴはアイライナーのキャップをくわえて、引き抜いた。

+ + +

ちびちびと薄茶を飲んでいた老女が、丸まった背をわずかばかり伸ばす。

「なんだかうるさいねえ」
「きっとシーラが来てんだよ、ばあちゃん」

隣部屋のほうに目をぎょろつかせる気難しい祖母。シドは慣れた調子で取りなした。

「シーラが?それにしたって騒がしいよ。とっくみあいでもしてるみたいだ」

声こそ聞こえないものの、先ほどから何度かばたん、ごとん、おかしな物音が立っている。

「とっくみあいに近いことしてんじゃないの?」
「ふん。近ごろのアベックは乱れてるねぇ……シド、玄関から杖を取ってきてくれるかい」
「杖?いいけど、どうするの」
「そいつで突っつくんだよ。壁を」
「つっ!?もーやめなよーばあちゃん!ほら、りんごでもむいてあげるよ!こっち来て!食い終わったらマニーたちのとこ遊びに行こっか!ね!」

元気がよすぎる祖母を、シドはあわてて壁際から遠ざけた。足元に置いていたヒーターも甲斐甲斐しく移動させてやる。

「シドニー。おまえにはいい人いないのかい?生きてるうちに、ひ孫の顔が見たいもんだ」
「うぅ、善処します」
「期待しないで待ってるよ」

ケープをかけ直す動作にはあきらめが浮かんでいて、少々しゅんとさせられた。