ぐずついていた天気は明日以降ようやく回復に向かうそうだ。その代わりにか今夜は一段と雨脚が激しい。頭を冷やすにはうってつけで、今晩にかぎっては好都合。ずぶ濡れで歩く俺をもの珍しそうに見る奴もいたが、別に気にもならなかった。
まだ時間はせいぜい日付が変わる頃にも関わらず、家には灯りがついていない。シドの帰りはたしか朝方になるんだった、限界まで水を吸ったジャケットを干し、脱衣所に向かいながら考えを巡らす。

組織内部の抗争でソトが病院送りになったこと、収容された住所や部屋番号、数日前に伝えてきたのはオスカーだった。あいつが俺を疎んでいるのを知っているだけに当初は疑いさえしたものだ。
『おれがお前にそんな嘘をついてどうする?ディエゴ』
つまらなげに奴は言う――その通りだった。もはや部外者の俺にそんなことを知らせても、あいつにこれといったメリットは無い。いや、それでも何かしらの意図はあるんだろう。よく言って合理的、悪く言うなら薄情。ソトから悪趣味な嗜虐性と古臭い仁義立てを除いたのがオスカーという男なのだから。詳しい経緯や肝心の病状については一切語らず、とにかく見舞いに行けとだけ奴は俺を促した。
あらかじめ取り次がれていたらしく、面会に手間取ることを覚悟していた俺は拍子抜けするほどスムーズに病室へと案内された。患者はあと一週間ほどで退院できること、そいつは現在眠っていること。先導する看護士は事務的な口調で淡々と話した。

洗濯物の回転が悪くなるとかなんとか。家事の主担当はぼやいているが、おかげで上階の部屋に行くまでもなく適当な着替えを見繕える。これ以上水に打たれたくねえからシャワーはパス。清潔に乾いた服は凍えた体にありがたい。頭を拭き、一息ついたことで胃にはコーヒーしか入っていないことを思い出す。酒を飲む気はなかったから時間を潰すためだけに入った店で飲んだのだが、これが苦いだけで美味くも何ともなかった。ため息が出る。
空腹は感じていない、朝になれば三人で飯を食うだろう――そう考えると気が晴れる。きっとそこに美味くも何ともないコーヒーは無いのだ。朝飯を待ち遠しく想いながら眠るってのも、悪くない。

通された個室は色彩を欠いていた。見舞いの品らしいものは一切見受けられず、唯一安っぽいデジタル時計が無言で時を刻んでいた。とりあえず顔に外傷は認められないが、しかし小雨が降るなか閉め切られたほの暗い病室で、ソトはずいぶん老け込んじまったように見えた。歳を感じさせない敏腕ぶりは、その寝顔からは全く感じられなかった。
花瓶は見当たらず、持ってきた花束は余儀なく椅子に載せておいた。次に訪れるのが最低限、気の利く奴だといいんだが――。

――声を、聞いた気がした。
階段を昇りきったところ。立ち止まって耳を澄ますが、聞こえてくるのは屋根にぶつかる雨音だけだ。…気のせいか?それでも無性に胸が騒ぐ。いまこの家で俺以外、声を出すなら必然的にマニーになる。しかし十中八九は寝ているはずで。ためらったものの、一度だけドアを叩いてみた。応答はない。

「マニー」

呼びかけてみても応答なし。やはり気のせいだと考える、しかし何かがそれを否定している。
念のため、と扉に片耳を押しつけ、俺は聞こえたものの不吉さに戦慄した。木材と雨音に阻まれたそれは、しかし確実に人間の呻き声だった。

「マニー!?」

部屋に踏み入ると、声が一気に近くなる。その苦しみ様によぎったのは記憶に新しい、色彩のない病室。薄い死の気配。どこか痛むところでもあるのか――急きながら明かりをつけて見取ったマニーの様相は、想像と少し違っていた。
もがいたせいだろう、いつも小奇麗なベッドが随分乱されている。室温が高すぎるわけでもないのに呼吸を荒らげ、額に脂汗を滲ませている。だが、部屋が明るくなっても俺が声をかけても、その目はかたく閉ざされていた。目も開けられないほどに苦しんでいる、わけじゃない。単純に、マニーは未だ眠っているのだ。
はた迷惑な鼾をかく野郎だとか歯軋りをする女だとかは何人も知ってるが、こうも苦しげにうなされている人間を俺はこれまで見たことがなかった。

「おい!おい!」

声をかけたぐらいじゃ通じない。強く肩を揺する。

「おい!起きろ!マニー!!」
「…――う……」

やっと弱く薄目を開けたマニーは、弾かれたように体を起こした。

「……っ」
「大丈夫か、うなされてたんだぞ?お前」
「……あれは…。私か?」
「あれ?」
「死にそうになってるんだ、刺されて、殺されて、血が、雨、が――」
「……悪い夢でも見たのか」

マニーは俺を見ない。見ようとしない。そのあまりにも濃い憔悴の色と支離滅裂な言葉の羅列に、一時は失せかけた不安が戻ってくる。

「ゆめ…違う、夢じゃない、あれは……、いや」

背を丸めるようにして額を押さえる様子を、俺はただ黙って見守ることしかできなかった。
どれだけそうしていたか。やっと俺に焦点を結んだ両目は、冷静な光を取り戻していた。

「……悪い。もう大丈夫だ」

依然、血色を失ったままの頬。どう前向きに見たって大丈夫じゃない。この十日間ほどは家でも休み返上でパソコンと向き合いっぱなしだったようだから、疲れが溜まっているのかもしれない。特にオスカーの知らせを受けてからのここ数日、ほとんど顔も合わせていなかったことを悔やんだ。

「…ちゃんと寝た方がいい」

はだけた胸元から視線を逸らして言う。ボタンが外れるほど身悶えて苦しんだという証拠なのだ、こんな感情で注視しそうになるのをやましく思う。舌打ちしそうになるのを堪え、声に笑いを含ませた。

「心配すんな、またうなされるようなら叩き起こしてやるよ」
「……頼む」

力ない微笑み。薄く隈の刷かれた目尻が下がる。本当にままならない――こいつも俺も。
マニーの寝る体勢が整うのを待って電気を消し、カーペットに腰を下ろした。睡眠の妨げにならないよう、じっと雨音に耳を傾ける。
組織内部の抗争に、俺がソトの元を離れた事実。直接の原因ではないだろうが、引き金になり得る一因であったことは間違いない。もたれかかったベッドで寝ているのは誰だったか。判らなくなりそうだ。
もらされ始めた規則正しい寝息に安堵し、音源の名を噛みしめる。立てた片膝に腕を置いてまどろむ。夜明けは遠く、未だ雨はやまない。