長い柔毛と時間に覆われ外部からそれと知られることはまず無いが、彼には無数の傷痕がある。 人間による石槍での刺傷。独り命からがら逃げのびたものの、それらの一部は内臓にまで及んだ。
三日三晩生死の境をさまようそのあいだ、彼はずっと夢を見ていた。否、見ていた、というには語弊があるかもしれない。狩人たちの叫喚、忌まわしい石刃、落下する岩石、誰かの悲鳴、それらの表象がまるで血管や神経の一本一本を介しているかのように全身へ混然と流れこんでくる。
ここはどこなのか、昼なのか夜なのか、夢か現実か。 悪夢がもたらす哀しみは、彼のすべてを狂わせた。ふたりのそばにいきたい。いっそいますぐにでもいってしまおうか。彼はそれだけを考え、ただひたすらに心臓を動かし、呼吸をしていたのだった。


――雨が降っている。
覚醒はじわりともたらされた。起動に時間がかかる視覚に代わり、聴覚が先行して戸外の様子を感知する。

「……う」

ずれたメガネを外して、眼界の霞みがそのせいではないことに気づいた。うんざりしながら手の甲で目じりを拭う。やはり椅子に座ったまま居眠りなどするものじゃない。首を動かすと、凝り固まった筋肉が軋んだ。滞った血流を正常に機能させるべく、目一杯伸びをする。
時刻はまさに丑三つ時。タイマーを設定してあったヒーターの電源も落ち、居間は寒々としていた。今日は、いやもう昨日になるのか、私に配慮したらしく早くに二人は自室へ引っ込んだ。正直そういうことは面白くないし極力家に仕事を持ち込みたくないのだが、今回は急を要することで仕方がなかった。暗闇を表示するラップトップを畳み、額を押さえる。 忙しい日が続いているせいか。ここ一週間ほど夢見が悪い。
疲れているのによく眠れないというのは思いのほか苦しいものだ。元より寝つきはいい方だから、なおさらこの状況には参っていた。

「まーだ終わんないのー?」

軽々しい口調――もちろんシドのもの。見れば眩しそうに目を細め、廊下から顔を出している。

「……もう終わった。お前、まだ起きてたのか」
「マンガ読んでたら変な姿勢で寝ちゃってさぁ。首痛い…」

だるそうに歩きながら頭を左右に傾け、ばきばきとやたら大きな音を鳴らす。呑気な奴だといつもなら嫌味のひとつも言ってやるところなのだが、現下そんな余力は残っていない。

「コーヒーいる?」
「いや、いい」

台所から控えめに訊かれた。一応は奴なりの心遣いなのだろう。温かい飲み物は魅力的だ。しかしなるべく質の良い睡眠をとりたいので、断っておく。
せめて見るのがもっと違うタイプの悪夢だったなら。そう考えずにはいられない。
狩人たちの叫喚、忌まわしい石刃、落下する岩石、誰かの悲鳴。
私自身が味わった経験ではない。あるはずがない。しかしそれらの心象はあまりにもリアルでおぞましいほど具体的で、醒めてからも身を切られるような哀しみが残る。
気づけば脇腹に触れていた。無骨な石槍による「彼」の一番深い傷。ちょうどこの辺りに、つけられていた。

「はい、どうぞ」

コンロで湯を沸かしたり棚をあさったり、何やら動き回っていたシド。ようやく運んできた一つきりのカップをダイニングテーブルの上ラップトップの横、つまりは私の前に置いた。コーヒーよりも優しい色をした液体。ただよう甘い匂いでココアだと判る。

「疲れたときには甘いもんだよね」

向かいではなく隣の椅子に座る、気安い笑顔。

「何が入ってるんだ」

本来真っ先に言うべき謝辞よりも、表面に浮かぶものの正体を訊ねるのが先になった。白色を踏まえてクリームのようだが、もっと別な固形物が溶けたものらしい。

「それね、マシュマロ」

なるほど実に甘ったるそうだ。ディエゴなら親の敵とばかりに嫌がるだろう。
陶器の感触は、寒さが残る指先に嬉しい。立ち昇る湯気に息を吹きかければ温かな香りが頬をくすぐる。ひとくち、その熱をのどに通した。

「おいしい?」
「……ああ」

ホットココアは骨の髄まで染みこむように美味かった。僅かにでも、他愛ない砂糖菓子のように疲労やわだかまりは蕩けていくかのようだった。

「…そっか。よかった。じゃあオレ、先に寝るね」
「あ、シド」

椅子を立ったシドが振り向いてから後悔した。別に用は無い。ただ、不思議と名残惜しかっただけで。

「なに?お休みのちゅーでもしてくれんの?」

狼狽の色を嗅ぎつけたのか、相変わらずのにやけ顔と軽口。
この楽天家に私は生かされた。ただ心臓を動かし呼吸することを生きるとは言わないだろう。 がむしゃらで無軌道なこいつに居場所を与えてやりはしたが、もっと得がたいものを私はもらった。 ……こんな奴に自分が救われているというのも情けない話だが。

「シド」

立ち上がってジャージを着込んだ肩を掴んだ。華奢とは言わない、しかしその感触は頼りない。身長差故やむないのだが上目遣いで見つめられるのも、そこに警戒の陰がまるで無いのも、気に食わない。

「……マニー?」

もしここでそれを実行したなら、変わるものはあるのだろうか。
あるとしたら何が変わり、いったい何が変わらないまま残るのだろう。

「――ありがとう」

それだけ言って、肩を放した。間抜け面は一瞬驚きのニュアンスを帯び、再びへらりと笑み崩れる。

「どーいたしまして。びびったぁ、急に真剣な顔するんだもん。マジでされるかと思ったじゃん」
「するかバカ。早く寝ろ」
「はいはい。おやすみっ」

何も実行されず、何も変わりはしなかったはずだ。けれど心臓が痛みを伴ってざわついている。
寄せられる信頼は、決して枷ではないはずなのに。