空が暗い。そびえる岸壁のさらに上、たれこめた雲を見て、もうすぐ雨が降るのだと判る。

「マンフレッド」
「大丈夫?」
「マニー……」
「なぁ、しっかりしろよ」

首をもたげるのにも時間がかかった。
数頭の仲間を引き連れ、そばには群れの長がいた。

「動けるのか。マンフレッド」

確認をとるのは、やはり長の役割だった。そのために彼はここへやって来たのだと知っている。

「いい、え」

息苦しかったが、努めてはっきりとこたえた。皆の足止めをする気はない。
我ながら満身創痍だ。突き刺さった石槍こそ自力で引っこ抜いたものの、体中が未だ乾かない血にまみれている。特に深くえぐられたわき腹の傷は、不快な熱源になり、にも関わらず寒気はしだいに増している。
大勢のペースに合わせて歩くことは不可能だ、伝えるべきことは伝えた。もう構うまいと、また鈍重に頭を動かす。実際己の具合など、ここに至っては取るに足らないものだった。

「……彼女とあの子は、残念だった」

聞こえた音からは厳かな同情を感じ取ったがそれが何だと言うのか。
今、私の前で、私の妻は眠りについている。永久に醒めない眠りだ。ひとり息子は、その体さえ私たちの前にない。人間たちに連れ去られた。幾度名を叫ぼうが無駄だった。

「奥さんは、勇敢だったよ」
「ああ。それにマニーも」

群れから離れていた子が最初に狙われた。やんちゃ盛りで、なかなか言いつけを聞かず遊び回ろうとした。懸命にあの子を守ろうとした妻も含め、肉食獣にしてみればうってつけの標的だ。私はふたりを先へ逃がしたが、結果としてそれは取り返しのつかない失敗になった。周囲には惨劇の名残が散らばっている。 嫌でもありありと思い起こされる光景。
ふたりの命を奪ったのは、落石の雨だった。行く手を阻まれた私を嘲笑うかのように、理不尽な暴力はふたりへ降りそそいだ。
虐殺、ではなく。あれが奴らの狩猟らしい。 あの子と彼女は私など比にならない怪我を負い、罪もない生命を奪いとられた。悔やんでも悔やんでも、悔やみきれない。ふたりから離れなければよかった。一緒にいてやればよかった。

「早くここを離れろ。明日になれば、おそらく人間たちは彼女も回収しに……」
「やめろ!」

視界が赤くゆがむ。回収?ヒトは異常な動物だ。あいつらは獲物の肉を食うだけじゃない、その毛皮を身にまとい、その骨子で住処をつくる。ぼろぼろになった子を、妻を、そのうえ奴らは――やめろ。やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろ。
仲間たちは私の様相にひるんだようで、しかし長は微動だにしなかった。その瞳はあわれみに染まっていたが、異様なものに向ける不快感もまた、彼は隠そうとしていなかった。

「覚悟はしていただろう。わしらはマンモスだと、お前に自覚がなかったわけじゃあるまい?」

その通り、私たちはマンモスだ。群れから恒常的に犠牲者は出る。避けられないことだ。それでも私が納得したことはない。
皆にあるのは覚悟じゃない、あきらめだと思っていた。奇妙に感じていた。何にも圧されぬ巨躯を、何にも勝る長大な双牙を、私たちは備えているのに。
なのにどうして、彼女とあの子はこうも簡単に殺された?どうして私は家族を守ることができなかった?

「私たちは、マンモスでした。こうも、無力な」

私たちは草食獣だ。どうあがいても、忌まわしい連鎖を覆すことはできないのだ。どう闘おうともこの長牙は外敵を刺し貫くことの能わない創りで、かえってヒトがマンモスを欲する材料の一つにさえなっている。
ちっぽけな人間のちっぽけな凶器は、こうもたやすく私を傷つけ、こうも残酷に妻と子供を殺した、にも関わらず。
憎悪した。種に負わされた定めを。それ以上に、家族の身代わりになることも、共に逝くことすらできなかった不甲斐ない自分を。

「日が沈みきる前に、群れを移動させなければならん」

手向けの挨拶のようだがこれは奇妙なことだった。群れを危険から遠ざけるために、長は無益な手順を踏まない。赤子であろうと老体であろうと、切り捨てるものは切り捨てて進む。新たな草原へ。そこに余計な情があってはならないのだ。より多くの仲間を生かし、存続させていくためには。

「残念だ。お前は良い気質を備えていた。後継者になってもらうつもりでいた」
「行ってくれ」

自分が彼のようになれるとは思えない。なりたいと思ったこともない。大切なものが近くにいてくれればよかった。ふたりが私のすべてで、私は今日、そのすべてをうしなった。


雨が降っている。
濡れた草木や土が、そこらじゅうで匂いたつ。もしも血のにおいを嗅ぎつけてくるようなやつがいたら、黙って喰い殺されるのも悪くないと考えはじめていた。だが実現はしそうにない。
四肢へ力をいれると、驚くことに立ち上がれた。まだ私には歩く機能が残されていた。
鼻先で妻の目元を、あと一度だけ撫でる。
かたく、冷たい。閉ざされたまぶたのふちを伝い落ちるしずく。美しい涙のようだった。

――愛してる。

もう私が泣くことはないだろう。かなしみという感情は私の心ではないどこか、遠い場所にある。
後を追って逝くまでもなかったのだ。すでに私も生きていないのだから。その実感は、ほの暗い救済にも似ていた。
雨が降っている。
歩を進めるごとにじくりと全身が痛む。血液がにじみ出る。世界が絶望に沈んでもなお、私の心臓は脈動していた。わずらわしくも。