プロポーズの報告を聞いた。
各々がそろそろ自室に引っ込もうかという夜更け、おやすみと挨拶するついでみたいな調子だった。
彼女の返事?そんなものは確認するまでもない。おめでとう、と手を叩いた。よかったな、と笑った。
気恥ずかしそうで嬉しそうで、でもどこか申し訳なさそうな、悲しそうな、マニーの顔。
きっと一生忘れられない。


MELTDOWN



「オレたちでお祝いしてあげなきゃな。とにかくぱーっと!!」

照れくさいのは理解できなくもなかったが、とてもそのまま眠れるような気持ちじゃなかった。ベランダで煙草をふかすディエゴの横顔へ、シドは一方的にまくし立てる。
あまり大っぴらに式を挙げたりするつもりはないのだとマニーは言った。特に訊ねはしないが彼が初婚ではないのとエリーに義弟しか身寄りのないことが、その理由の大部分だと想像できた。

「女の子はさ、やっぱりドレスだって着たいと思うんだよ」

規模は小さくても披露宴をかねたパーティーなんかいいじゃないか。ちょっと考えただけでワクワクする。みんなで騒ぐのは大好きだ。

「エリーたちには内緒で会場借りて衣装借りて、準備すんの!ぜったい楽しいよ、マニーなんか感激で泣いちゃったらどうする?笑うに笑えないよなー」

プロポーズについて思い悩んでいるのは随分前から知っていた。指輪買わなきゃとはりきるシドを、そんなのはドラマだけの演出だと諌めたのもマニー自身だ。聞けば婚約が成立したのちに二人で宝石店なりを訪れるのが普通らしい。そうすれば当然指輪のサイズが合わないなんて致命的なミスは起こり得ないから。
もっともな解説をしてくれたのが、もう何百年も昔のことに感じられる。

「なーディエゴも考えろよ!余興とかって何やるのがいいんだろ?考えてみればオイラ結婚式って出たことないんだよな。ディエゴはある?歌とか歌えばいいのかな、ありきたりすぎるかな――」
「シド」

毅然とした声だった。見れば無言を決めこんで夜空ばかりを映していた目と視線が合う。その静かさに、シドは笑顔をこわばらせる。流れてくる湿った空気には濁りがなく、部屋への侵入を果たしていたわずかな煙のにおいは、いつの間にかあとかたもなく失せていた。
ベランダから部屋に上がり、ディエゴはナイトテーブルへ灰皿を置く。金属と木材がぶつかるごく軽い物音に、シドはベッドの端で身を縮こませる。聞きたくないと思った。

「来週にでも、俺はここを出る」

予感はしていた。けれど、覚悟ではなかった。声が震えてしまわないよう、強く両手を握り合わせる。

「……来週は、早すぎない?」
「早すぎない。当てはあるんだからな。運ぶのが面倒な荷物もない」

以前暮らしていたアパートを引き払わずにおいてあると、シドも聞くだけは聞いていた。まとめて間代を支払ってあったのだと。こんな風にいつか役立つだろうことを、ディエゴは予測していたのだろうか。一向に物が増えない彼の部屋。

「お前も身の振り方を考えろよ?」

唇の片端を上げ、ディエゴはいまさら冗談めかす。言われるまでもない。最低限の生活費しかマニーは受け取ろうとしなかったから、すぐにでも一人暮らしを始められる程度の貯えはできている。シドだって、ちゃんと考えていた。
いつまでもいつまでもこうして仲良く三人で暮らしていけるなんて甘く信じるほどガキじゃない。信じていたかったとむずがる自分がいるのも事実だけど。

「……ディエゴ」
「シド、もう寝ろ。どけ」

言われるままに立ち上がったシドと入れ替わりにベッドへ腰を下ろし、ディエゴは新たな煙草に火を点ける。
年季の入ったオイルライターと、まだ真新しさを残す灰皿。すでに四本の吸殻が中で折れ曲がっている。 この家に来た当初と比べ、ディエゴの喫煙量は明らかに減っていた。煙草を吸っている姿を見たのも久しぶりだった。

「……ディエゴ、」

ゆるゆるとあけっぱなしの窓へ漂う煙越しに、ディエゴは黙ってシドを見つめる。屋外は夜陰に包まれて、そのぶん明るい場所にいる人間の感情は浮き彫りになりやすいから息苦しい。駄々をこねたりべそをかいたりしないだけは良好だと思うが。大事なことほどうまく言葉にはならない。
頷いてやるのがディエゴに表現できる、精一杯の優しさだった。

「――さびしい、って。ちょっと思うだけなら、いいよな?」

今生の別れではないが今まで通りの共同生活は二度と戻ってこない。不思議な潔さで心得ていた。
日常と錯覚していた非日常は融解しようとしている。
薄絹のような静穏にくるまれた、それはとても美しい夜のことだった。