料理を早くに始めたのは義親を亡くし必要に迫られたからで、めったにお菓子作りはしたことがなかった。それを最近趣味にするようになった理由は恋人宅の居候兼親友、といっていいものか定かではないが、とにかく良き先生ができたおかげだ。
「女の子が一番喜んでくれるんだよね」なんてそれはもう楽しそうに、家へ行くたびクッキーやらパイやらをご馳走してくれたシド。作り方を教えてほしいと頼んだときだって、やはり彼は二つ返事で快諾してくれたのだった。


「……チョコレートか」

今日は頑張って一人でチョコレートケーキ作りに挑戦してみた。できたてを食べてほしいと頼んで招いた自宅のダイニングキッチン。いいかげん一人で待ちくたびれてしまったらしく顔を出し、香気の元を言い当てたマニーへ笑いかける。

「ええ。あとは焼くだけだから」

作っているのはスフレタイプのシンプルなケーキ。メレンゲを加えてさっくり混ぜ合わせるという工程を終え、あとはオーブンに入れておくだけで完成だ。
使った器具をシンクへ運ぶのを手伝いながら彼がオーブンを覗き込む。

「焼き上がりまでどのくらいかかる?」
「四十五分。冷ましてからの方がいいから、それよりもうしばらく…んー、甘い」

エリーはゴムべらに残った茶色の生地を人差し指で掬い、それをぱくりと口に含んだ。
シドにもらって参考にした「お菓子大全集」によればブラックチョコでなくカカオマスを使用しているからだそうで、ケーキの甘みはきりりとしたほろ苦さをも内包するちょっと大人びた味がした。
これがうまく焼けてくれればきっとこれまでの、どの練習より良い出来になる。

「あなたも味見す……」

振り向きざま肩を抱かれた感触、唇をかすめていった感触は、スローモーションのようだった。
そのわずかな時間が一コマ一コマ、鮮明に意識に刻み込まれる。

「君の方が甘い」

至近距離でほころぶ、淡いココア色の瞳。
背骨よりもっと深い、エリーをかたち作っているなにかもっと根本的なものが、湯せんにかけられたチョコレートのように溶かされて、融かされて、とかされて、いく。
ふにゃふにゃになった体を支えるように背を抱き、エプロンの紐をほどこうとする大きな手。

「まっ…マニー」
「ん、あぁ。エプロンつけたままの方がよかった?」

顔から火が出そうだ。首を振って否定を表すと、彼はくすりと肩を揺らした。

「…ケーキが焼きあがるまで」

まるで鼓膜を直接くすぐるように、吹き込むように囁かれる。
嘘をつけない、つきたくない相手だ。そんなのは妥協案でもなんでもないのに、いやだと言うことはできなかった。 ぴったりとマニーの体に額をくっつけ、蕩けた視界を完全に閉ざす。

「……約束?」

念を押すと髪を撫でられた。
子ども扱いされているように感じるが、そうされること自体はきらいじゃない。

「ああ。約束」

指切りでなく、口づけで誓う。
ただ。こんなにも破られていい約束なんて、はたして約束と呼ぶのだろうか。