赤ん坊と別れて南へ進むこと数日。気温は日に日に上昇し、打ち解けた仲間との旅は前にも増して心弾むものになっている。天候にも恵まれたその日、三頭はいつもより長い距離を移動した。 数多の星々が輝きを増す頃ようやく手ごろな洞穴に体を落ちつけ、疲弊した彼らはほどなく眠りに就いたのだった。



「――マニー?マニー」

闇の中寄り添ってきた体温に、マンフレッドは薄目を開ける。どれくらい眠ったのだろう。少なくともまだ朝日は差しこんできていないし、からだは睡眠を欲している。

「シド…トイレなら一人で行けよ」
「違うっての!つまんないこと言ってる場合じゃないんだよ、ディエゴが帰ってこないんだ!」

それで一気に覚醒する。即座に立ち上げられた巨躯から、シドは慌てて飛び退いた。

「どれくらいになる?……狩りに行ったんじゃないのか」

ディエゴは自分たちに気兼ねしている。不便なことだが、無理もない。食料の問題に関してだけは、自分たちが同種族でないことが惜しまれた。

「目を覚ましたらいなかったんだ。もう随分前になる。いくらなんでも遅すぎるんだよ――こんなに」

こんなに時間がかかったことないよ。
小さくシドは言い、マンフレッドは表情を険しく歪めた。自分たちはディエゴに比べてあまり夜目が利かない。ふたりで夜更けに行動するにはそれなりの危険が伴う。逡巡する間も風の立てる乾いた音が、暗がりで心細げに木霊していた。

「…探しに行こう」

決断は昂然として、力強い。明朝では手遅れになるかもしれないのだから。よく見えずともシドが表情を明るくしたのが判る。返事もなかなかに勇ましかった。

* * * * *

幸い今夜は月が大きい。浮かぶ満月を仰いだシドの背を、励ますようにマンフレッドは叩く。しばらく歩くと、どこからか水の流れる音が聞こえてきた。

「川かな?」
「ああ、行ってみよう」

耳をそばだて、そちらへ向かう。赤ん坊を拾った場所のようなせせらぎではない。ごうごうと激しく、水は高い場所から低い所へ流れ落ちているようだ。導かれるままときおり草木をかき分けて進み、ようやく視界が拓けた場所は、切り立った崖の上。見晴らしが良く、天が近い。滝の音に紛れて聞きとれなかったが、シドの呟いた単語はおそらくマンフレッドのそれと同じだった。

「ディエゴ」

果たして、彼はそこにいた。背面がさらさらと冷たげな月光に照らされている。
胸のうちに安堵が広がり、歩み寄ろうとしたのも束の間。悪寒を覚えマンフレッドは四肢を、シドは両脚を、ぴたりと止めた。微かだが紛れもない。清涼な水のにおいに混じり漂ってくるのは、鮮血のにおいだ。

「――ディエゴ」

こみ上げるものを抑えて仲間を呼んだ。そんなはずは無いのだが、まるで今までふたりに気がつかなかったかのように、やっとディエゴはこちらを振り向く。切れ長の瞳は無感情に金色を容れていた。

「どうした」
「え、あ、あああの!なかなか戻ってこないから、オイラたち、心配になって」
「探しに来た」

南に向かっているとは言っても、夜気の温度はまだまだ鋭い。水辺に吹く寒風は容赦なく体温を奪っていく。寒さのせいか、もっと別な理由のせいか。くっついてくるシドは震えていた。

「俺を探しに?」

ディエゴが剣牙をつり上げる。笑ったのだろうが、それは泣き顔に近かった。

「…戻ろう、ディエゴ」

やはり来るべきではなかったのか?後悔がよぎるが、生々しい血肉の気配をまとったディエゴはひどく消耗しているように映った。ここに置いて戻るわけにはいかない。かろうじて言い踵を返しかけたマンフレッドを、ディエゴは唐突に呼び止めた。

「ディエゴ?」
「…お前の家族を殺したのは、人間だったよな」

寒風のせいではない。低く発されたその台詞に、ぞくり、全身が総毛立つ。それで鋭敏な被捕食動物は、継がれようとする言葉の不吉さをも察知する。

「なあマニー?あんたの家族はどうやって――あいつらに、殺された?」

刹那、身を凍らせたマンフレッドの横から飛び出し、シドが非難を訴えた。

「おいディエゴ!いきなりなに言ってんだ…!?どうしちゃったんだよっ!?」
「シド。言ってたよな?こいつは独りで北へ向かおうとしていた。…死にに行くようなもんだ」
「う、うん……」
「マニー。お前はそれだけの傷を人間に負わされても、人間を許した。けどな、それは誰にでもできることじゃない」

身じろいだ鉤爪の下で表土がひしゃげた。冴え冴えとした月光がつくる色濃い影が、その動きと共に形を変える。あれほど大きな川音が、ほとんど耳に入ってこない。

「あの子の母親を殺したのは、俺だ」

暗がりに在り開いていた瞳孔を、マンフレッドはさらに極限まで散大させた。凍りついていた脳は驚愕に強打され、ばらばらになってしまったかのようだった。シドすらも言葉をうしない音を失くす世界で、ディエゴの声だけが望月のように明晰に響く。

「追いつめられて、母親は飛び降りた。…ちょうど、こんな所から。なのに俺は、俺はこうして生き長らえてる」

自供というよりは懺悔だろう、自嘲する口元から覗いた歯列。そのものが武器であり獲物を狩るための凶器なのだと、忘れたのではないが意識することはなくなっていた。古傷の痛みに眼が眩む。
濡れそぼり、力なく川岸を這う青白い皮膚――こんなにも弱々しい人間がいたものかと驚くような。何にも、たとえ自分の命に代えても子を守り通したいという切願は自分も人間も同じなのだと、マンフレッドはあのひとから学んだ。
失う哀しみは嫌というほど知っている、しかし奪った側の苦しみなどは、一度だって考えようともしなかった。

「――だから、だからどうしたってんだよ!?」

沈黙を破ったのはシドだった。飛んでいた意識が引き戻される。ずいずいと不可視の障害を押すようにして前進するちっぽけな背が、目前にはあった。

「マニーは人間を許したじゃんか!だったらあの子だって……あの子だって、きっとあんたを許してくれる!」

肩を上下させるシドとその語気に気圧されたかのように後ずさったディエゴを、マンフレッドは静かに見据える。

「ディエゴ。お前も、そこから飛び降りる気か?」
「……そうだと言ったら?」

自然に口をついた応酬。内容は剣呑なものだったが、どちらの語気も穏やかだった。
奪う側の苦しみは計り知れないし、わからない。 けれど己がすべきことは、結局最初から同じなのだ。

「やってみろ、絶対に死なせてなんかやらない。私はお前を助けて、また貸しを作ってやる。そうなったらそれを返すまで、私より先にお前は死ねない。絶対に」

ディエゴは苦しげに頭を振る――そう、そうやって苦しめばいいのだと思った。苦しんで、罪の意識に苛まれて、それでも生き長らえればいいのだと。

「お前らは、ひとが良すぎる。俺は、仲間を裏切ったんだぞ?」
「あんたの仲間はオイラたちだろっ!?」

激高したシドがディエゴへ、半ば猪突するように抱きついた。いつもなら鬱陶しがるだろうディエゴも、今だけはされるがままになっている。

「ディエゴ。あのひとは安らかだった」

その事実が少しでも救いになることを祈る。ディエゴは息を詰まらせ、最後の危惧をぽつりと漏らした。

「……今度はお前たちを、裏切るかもしれない」
「その時はその時だ」
「そう簡単に裏切られてやるつもりはないけどな」

ようやく本当に、心から安堵が湧き上がってきて、二頭は笑う。

「問答は終わりか?なら戻るぞ」

ゆったりと体を回すマンフレッドを親指で示し、シドはディエゴに耳打ちした。

「ああ言ってるけどさ。マニーはあんたが自分を裏切ることなんて無いと思ってるよ。オイラもね」
「聞こえてるぞ余計なこと言うなシド!」

風は鋭さを収めつつある。滝つ川を顧みたディエゴの瞳で、曙光はゆるりと優しくとけた。