三寒四温とはよく言ったもので、前夜までの冷え込みが嘘のように今晩は夜気が柔らかい。
スプリングコートは新調しようか、去年買ったもので我慢しようか。さりげなく歩幅を縮めて車道側を歩いてくれる相手が傍らにいる、まさに今このとき、考えるべきことではない。しかしそれを承知の上で、クローゼットの奥へエリーは思いを馳せていた。
夕食にマニーが連れて行ってくれた瀟洒なレストラン。予約席へ案内されながら、フォーマルな雰囲気のあるワンピースを着ていた自分を褒めてやりたくなったものだ。もっとカジュアルな服装であったら絶対に具合悪い思いをした。まったく、ああいう改まった店で食事をするなら前もって教えてもらいたい。おなじ仕事帰りでも、スーツの彼は着替えを気にする必要もないのだろうが。

『どうして今日はこんな、ごちそうなの?』

考えなしに訊ねてしまったのが本日の反省点である。

『……付き合い始めて、ちょうど一ヶ月だから』

ぼそりとマニーが言ったあの瞬間は、気まずさと申し訳なさで冷や汗をかいた。

そんな出来事はあれど、料理はとてもおいしかった。選んでもらった食前酒からデザート、ときどき運ばれてくるパンに至るまで。胃袋も心も満ち足りている。
なのに、と言おうか。だから、と言おうか。二人そろって離れがたい気分になっているのを、エリーは感じ取っていた。まだ一緒にいたいという願いは鮮烈だけれど、口に出したらおかしいだろうか。
――帰したくない、とか。言ってくれても。
つい考えてしまったものの、その空想はなんだかわびしい。エリーは歩幅を大きくした。規則正しかった二人ぶんの足音が、そのせいで乱れる。

「エリー、クラッシュたちからまだ連絡きてないよな」
「ええ。大丈夫」

もうすぐ家に着く。そこで弟たちは寝ずに姉の帰りを待っている。遅くなろうものなら迎えにいくなんてメールを送ってくるか、あるいは恋人のほうへ直で抗議の電話をかけてきさえするのだ。
一度変態呼ばわりまでされてしまったマニーには悪いが、もちろん嫌なきもちはしない。自分が弟たちを心配するように、二人も自分を気にかけてくれているのだろう。幸せなことだ。たった二人のかぞく。彼らより大事なものはエリーにない。 昔できたボーイフレンドらしきものは、これにひどくへそを曲げた。その男の子を好いていたのが幻だったかのように息苦しかったとばかり覚えている。お別れするまで、さほど時間は要らなかったことも。

「シドたちからは?連絡ない?」
「シドたちから?あるはずないだろう。私の何だと思ってるんだあいつらを」
「あら、心配してるかもよ?なかよしだもの。マニーたち」
「なかよし……」

どのような気分からなのか(まさか嫌なのではあるまい)難しい顔をしてマニーは黙りこんだ。彼にも大事な人たちがいる。だから恋愛のほかに優先したいものがあると、理解してくれるのだろうか。

弟たちより大事なものはエリーにない。だけどマニーのことは好きだ。
本当はパンツのほうが性に合っているのに最近購入したのはスカートばかりで、髪ももう少し伸ばす予定。べつにそうしてくれと頼まれたのではなく、近くで注意深く観察を続けて、彼の好みが少しづつ判ってきたからだ。ちゃんと成果もあって、前より身なりを褒めてくれることが多くなった。些細な喜びが、以前より増えた。
――こういうのが恋なんだ。
なるほどね。と。軽やかにまっすぐ、エリーは納得する。

半歩後ろを歩いていたマニーの足が、アパートのエントランス前でついに止まった。

「じゃあ。また」

耳当たりのいい、余分な感情の入っていない声。
二人そろって離れがたい気分になっているのを、エリーは感じ取っていた。にぶいところのあるマニーだって同様のはずだ。にも関わらず、振り切るように背を向けられた。
はじめからこうだった。マニーはなかなか、欲しい言葉を言葉にしてくれない。後押ししてくれる人たちもこの場にはいないのだ。

「エリー?」

彼のコートを握ったのはとっさだった。体が勝手に動いたようなもので、そんなふうに呼ばれても応えに窮してしまう。気管のあたりで言いたいことががちゃがちゃに絡まり、ほどけなくなっていた。
ほんとうは理解している。帰したくないとわがままに訴えられたって、エリーは帰らなければいけない。ごく現実的な良識にそって、彼は行動しているのだと。
ふりかえるマニーを見返すこともできずにエリーはうつむいていた。ほろ苦い失望や経験のない葛藤のはざまで、混乱していた。栓の抜けた浮き輪みたいに、引きとめる指がへなへなしぼんでいくかのようだ。
上着から外れかけた彼女の手のひらは、しかしすんでの所ですくい取られた。いつだって温かな五指。強引さのない、力強さを内包している。

丁重な物腰でマニーは頭を垂れ――あのとき彼がひざまづいたりしなくて良かったと、のちにエリーは回想する――手の甲、指のつけねへ近いところに、口づけがそっと落とされた。
客観的には時代錯誤の芝居がかった、きざな行為に見えたかもしれない。けれどその一連の動作はあまりにも、不自然なほどわざとらしさがなく、そんな矛盾した礼儀正しさのせいでエリーは恥じらうよりも当惑した。
かるい感触の余韻はすぐに消え失せてしまいそうで、慌てて手を引く。

「おやすみ」

ひかえめに頬をゆるめてマニーが告げた。
エリーは恋人が夜陰に紛れても尚、そこだけがぽっかりと明るいアパートのエントランス前で、ぬるい夜風に吹かれていた。