「おいマニー」

読んでいたベストセラー小説も終盤、話題作だったことも頷ける面白さに熱中し、シドの寝息がすっかり気にならなくなった頃。

「……ディエゴ!?」
「ああ。シドの奴知らねぇか?」

ドアの向こうから声をかけられ、マニーは身を固くした。

「ま、待てっ、ちょっと待て!」
「部屋にいないんだがな。どこかへ出か、け――」

こんな現場を見られては男の沽券に関わる――
必死で制止したが、一瞬遅い。
先にドアを開け部屋に踏み入ってしまったもう一方の同居人。瞠目し、ドアノブに手をかけたままの姿勢でぴしりと石化した。

「…………」

互いに無言で見つめ合う。長い長い沈黙の後、ようやくディエゴが重々しく口を開いた。

「どうしたんだ?そいつは」

問いかけてくる声は地を這うように低い。
そいつとはもちろん膝を借りたまま現在進行形で眠りこけてくれやがっているシドのことである。
マニーの背すじを嫌な汗が伝った。

「い、いや。これはだな、こいつに頼まれて、成り行き上仕方なくというか、やむを得ずというか」

しどろもどろになりつつ成り行きの説明を試みてみるが、ディエゴは剣呑なまなざしを収めてくれない。皮肉っぽく、唇だけを歪めて微笑う。

「へぇ。そいつに頼まれて、それで了承したわけか」
「……う」

たしかに。本気で嫌なのであれば、頼みを突っぱねればいいだけのこと。

いや、それにしてもおかしくはないか。こんな姿を見られて気恥ずかしいのは、決してディエゴの方じゃない。 不利益を被っているのは自分一方のみであるはずなのに、どうしてここまで絶望的に険悪な空気が、この場に生じているのだろうか?

マニーにとってこの状況はあまりにも腑に落ちない点ばかりなのだが、直球で訊ねるのも恐ろしい。
邪険に扱い辛いぶん、ある意味ディエゴはシド以上に厄介な相手だと言えよう。

「ディエゴー。オーラがどす黒くなってるぞー」

永遠にこの気まずい膠着状態が続くのかとさえマニーには思われた矢先。
張り詰めた糸を切ったのはこの空気を生み出した元凶の、腹立たしくも間延びした声だった。

「シド!」
「お前、起きて……!?」

二人分の声が重なる。にやりと口角を上げ、シドはしっかりまぶたを上げた。

「みっともないよなー。男の嫉妬は」

その一言で、ついにディエゴの顔から一切の表情らしい表情が消え失せた。
ただでさえ下降していた部屋の温度が一気に氷点下近くまで下がった、気がする。

「シ、シド!起きたんならどけ!今すぐどけ!脚が痺れたから!!」

凍え死にそうな雰囲気に居たたまれなくなり、マニーは未だ膝の上を占領しているシドの頭をぐいと押す。とにかく一刻も早くこの場を立ち去りたいというのが心の底からの本音だ。

「痺れたって…。じゃあ、こうすると」
「な、おい触るな……っあああ!!」
「わ、おもしろー!ここは?」
「だから、触るな!やめろっぁ、揉むなぁああああ!!」

長時間負荷がかけられていた両脚は麻痺しきって、立ち去るどころか立ち上がるのもままならない状態になっていた。マニーにとっては死活問題、冗談抜きでベッドから転がり落ちそうになっているのだが、シドは冗談半分からかい半分、とにかく悪ふざけ目的のみでじゃれついてくる。

「は……ディエゴ…た、たす、け……」

痛いともこそばゆいともつかない刺激に視界が揺れる。変に声を張り上げたせいで息が上がりそうだ。
止めに入ってくれてもいいものを、一向に口も手も出そうとしてこないディエゴ――は、気付けば壮絶な笑みを浮かべて悶絶するこちらを見下ろしていた。

「は、そうか…。いいぜ、次は同じようにはいかせないからな。後悔するなよ、マニー」
「え、おい、ディエゴ?後悔って?私が!?何の話だっ!?」
「オレだって。次は譲ってやるなんてサービスはしてやんないぜ、ディエゴ」

脚の痺れを忘れるほどの威圧感を、シドは平然と受け流す。
意外に大物だ。マニーは場違いにも感心しながら息を呑んだ。

それにしてもなんだかよく判らないがおそらくは、ひどくつまらない問題を巡って対立する居候二名。
それとディエゴの宣戦布告――。少々、いやかなりマニーが今後の生活に不安を覚えたのは言うまでもない。