「なぁなぁマニー、ディエゴー」

ぱたぱたと階段を駆け下りてきたシドを、二人はそろってソファから見やる。

「トリックオアトリート!お菓子が食べたい!」

いきなりかよ。
盛大に顔をしかめたのは、テレビに一番近い場所で熱心にボクシング観戦をしていたディエゴだ。

「持ってないぞ、なにも」
「じゃあいたずらだね」
「どんな」
「そーだなぁ。オレからの熱いベーゼをプレゼントは?」
「最高の嫌がらせだな」

大儀そうにディエゴは組んでいた脚を戻してデニムのポケットを探り、白っぽいケースをつかみ出す。

「おら、これで文句言わせないからな。静かにしてろ」

ぞんざいに放り渡されたのはミント風味のタブレットだった。期待したようなお菓子ではなく、しかもケースはとっくに開封済み。

(…お菓子なんて持ってないのは判ってるから、買ってきてもらいたかったんだけど)

漫画を読んでいたらコーラが飲みたくなったのだ。猛烈に。ついでにポテチが食べたいのだ。ハロウィンにかこつけて、いわばパシリになってほしかったのだけれど、事はそうそう狙い通りに運んでくれない。
がっかりしつつも、シドは期待を捨てなかった。

「マニーは?」

ローテーブルを挟んだディエゴの正面で静観を決めこんでいる毒舌家。これは打つ手がないんだろうと踏む。

「なんにもないならね、今から買ってきてくれても――」
「…なんにもない?」

双眸を細めたマニーがふっと口の端をつり上げた。黙っていれば気難しい一面を感じさせない、優しげな彼の顔立ちには不似合いの表情だ。

「うわぁその笑い方初めて見た。ディエゴのマネ?」
「シド。お前の傾向は、完璧に把握した。すなわち、対策も万全だ」
「けーこーとたいさく?」

優等生っぽいフレーズをくり返す。言い慣れないものでアクセントが不自然になった。マニーは読んでいた書類を置いてソファから立ち上がり、ダイニングチェアに載せてあったブリーフケースから何かを取り出してくる。
首を傾けるシドへ手渡されたのは、かぼちゃがデザインされたオレンジ色の箱だった。ハロウィン用のギフトセットといったところか。中にはたっぷりの個包装されたクッキーやマシュマロ、キャンディーやチョコレート。

「わ、わざわざこんなの用意してくれてたんだ」
「マメだよなぁ……」

ディエゴがもらす賞賛はいくらかの呆れまじり。贈られた本人はびっくりして礼を言うのも忘れてしまった。

「シド。お前は?」
「はい?」
「トリックオアトリート。私にはどうする。もらいっぱなしでいるつもりか?」

ますます驚きだ。マニーが他人に、それも自分に、見返りの物品を要求するなんて。事が予想外の方向に運びすぎていて、シドは冷や汗をかく。

「え。オレはそのー…マニーたちには用意してないんだよね……」
「じゃあいたずらか。なんだ、熱いベーゼ?だったよな、ご要望は」
「ご要望ではないですけど、おっ!?」

否定は黙殺され、伸ばされた指が耳元に触れてくる。さらにそこからほっぺたを撫で下りる手つきはまるで女性に対するようなそれであり、恐ろしくうやうやしい。シドはすくみ上がり、菓子箱を胸の前で盾にした。

「ちょちょちょマニー、か、顔近いってば」
「そりゃあな。近づけてるから」

マニーを気弱だと感じた経験はないが、それにしたって強気のベクトルがいつもとあまりにも違う。恥も外聞も忘れてしまったのだろうか。

「おい。め」
「えっ?」
「目だ。閉じてろ」
「……!」

こんな展開になるなんて夢にも思わなかった。おそるべしハロウィンである。
これはお手上げだと、腹を据えたシドは命じられるまま固く目をつぶった。ややあってマニーがますます顔を近寄せてくる気配。今や左右両の頬が逃がすまいとばかり、しっかり押さえられて逃げられない。
推定距離は七センチ、六センチ五センチ、三センチ――そこでわずか、気配が遠のく。
不審を覚えまぶたを上げかけたシドのひたいに、突如として強い衝撃がぶつかった。

「あだっ!……!?」
「なにを緊張してるんだ」

痛むおでこを押さえつつ、大量のクエスチョンマークを浮かべて見た恩人。眉根を寄せて苦笑いしていた。
ベーゼでもキスでも接吻でもない。ぶつかり合ったのは互いのひたいであり、今されたのはいわゆる、頭突きだ。

「わ、うわ!ひどい!オレのことだましたんだ!?」
「だましたなんて人聞きが悪いな。イタズラらしいイタズラだったろ?何がベーゼだ」

あっさりしたマニーの口ぶりにシドは不満いっぱい、おもしろくない。しっかり一部始終を見ていたらしいディエゴまで笑っているから、よけいに口惜しい。

「ううう……」

あれほど飲みたかったコーラも忘れ、悔しさにうなるシドの頭脳はフル回転した。
こうなったらどうにか一矢報いらなければ。どんな名目でもいい、いちゃもんはつけた者勝ちだし――と考え、思い出す。

「……考えてみたらさ。マニーにお菓子、あげたじゃん。オレ」

シングルソファへ戻ろうとしていたマニーは怪訝そうに振り返った。

「お菓子?もらってなんかない」
「さっき食ったじゃん!オレが作ったパンプキンタルト!」
「な、あれは味見しろってお前が言ってきたんだろ!?」

わりあい簡単なかぼちゃのタルト。本日仕事場でお菓子を配ってくれた女の子たちのために作ったお返しだ。夕食後のデザートも兼ねてマニーに分けたのは、一切れにも満たない量。

「だめ。食ったもんは食った。お菓子あげたのに、頭突きまでされて損した!オレだってさせてもらうっ」
「バカなこと言うな!!」
「マニー」

ディエゴに呼ばれ、叫んだマニーははっと肩を揺らす。

「ちょっと抑えてくれるか。声」

実況が聞こえないから、と頼まれ言葉につまった相手を、おもしろそうにシドは見上げた。

「あはは、注意された」
「お前のせいだろうが……!」
「黙ってオレにもさせてくれれば済むことだろ?いたずら」

ここで身を引くような奥ゆかしい精神の持ち主であったなら、シドがこの家に住まう運命はありえなかった。
そして頑固なわりに他人のゴリ押しに弱い性質を持ち合わせていなければ、マニーが家に居候を受け入れる運命もなかっただろう。

「……うざったいやつだな…」

折れたのは、やはりそんなマニーであった。シドより目線を下げるべく渋々椅子に腰かける。

「怖い顔しないでくれるかなぁ」

眉のあいだをひとさし指で押してやれば一瞬しわを深めたものの、すぐに力が抜けてマニーの表情はゆるむ。まぶたを閉じもしたのだが本当に見えていないのか、鼻先で手を振ってみる。

「おい」
「あ、やっぱ見えてた?薄目開けてる?」
「開けてないから、さっさとしろ。あんまりマジでやるんじゃないぞ」

心もちあごを上げて催促された。しかめ面ではない、寝顔に近いけれどそれとも違うかお。シドは珍しげに眺め、おもむろに動いた。
推定される顔間距離は七センチ、六センチ五センチ、三センチ――マニーが感じるシドの気配はそのスピードのまま、遠のくことなく。
ちゅ、とやたら可愛らしい音を残して触れ合ったのは、両者の唇と唇だった。

「…………」

顔が離れ、まさに目睫の間といったところで視線がぶつかる。マニーの肩に置いていた手を外しても、しばし無言の時は続いた。テレビのスピーカーから歓声が聞こえる。

「…き…貴様……」

その静寂も、むろん長くは続かない。

「――…いつこんなことをしろって言った!?バカがっっ!!」

びりびり、しびれた窓ガラスと鼓膜。やぶれなくって本当によかった。

「なんかねぇ、キス顔ちょっとかわいく見えたんで魔がさした。ハロウィンだから?」
「キスじゃない!許可したのは頭突きだ!しかも理由になってないだろハロウィンは!」

悪びれないシドは、ギフトボックスから飴玉を選んで口に放り込む。キャンディーはオレンジ色をしていたが皮肉なことにレモン味のようだ。

「マニーも飴ちゃんほしい?」
「いらん!もう返せよそれも!」
「んな怒らないでよ減るもんでもなし……。あら、それとも」
「?」
「今の、ファーストキスだった?マニーってば実はまだ童貞だったり」
「するわけあるかー!子供がいたのも知ってるだろうが!?」

――なんてこと口走ってんだアイツは。
怒らせて楽しむシドもシドだ、しかし奴の思惑通り赤面してむきになるマニーもマニーだ。脇で聞いてるほうが居たたまれないが、下手に割り込んだらとばっちりを受けかねない。中継を聞くためよりも知らぬ存ぜぬを押し通すために、ヘッドホンのプラグをテレビへ差し込んだディエゴの選択。おそらくは英断なのだった。