ふたりについて。
わたしが知っていることは、とても少ない。ないに等しい。
どのくらい前に亡くなったとか。年齢はいくつだったとか。教えてもらえたのはそういういくつかの数字で、客観視できる情報でしかなかった。

「驚かないんだな」

木材の質感が良くて広々していて、わたしはマニーの家のダイニングテーブルが気に入っている。なのについさっきまでは、味わったことがないような緊張をしていた。だいたいマニーはいつだって深刻になりすぎるのだ。

「そうね。あんまり驚いてはいないみたい。改まってどんなことを言われるのか、すごく心配したんだもの」

付き合い始めたばかりなのに、別れ話を切りだされるんじゃないかとか。

「話すのに覚悟が要ったんだけどな。君にとって、悪いことじゃなかったなら」

よかった、と目を伏せたマニーはわたし以上に安心しているみたいだ。彼は彼で、どんな覚悟をしていたのだろう。
バツイチの――離婚ではなく死別というかたちになってしまってもこんな俗っぽい言い方をするのかしら、不確かだけれどともかく――相手となんか付き合いたくないとでも、わたしが言うと思ったのだろうか?
気持ちを軽く量られたような気がしてそこが不満ではあるものの、結婚をしていたという告白そのものに嫌な感情はない。むしろ、すっきり腑に落ちた。一緒に過ごしているとき、彼がふとつらそうな顔をするのはこのためだったんだ――キスより先に進もうとしてくれないのも、おそらくは。

「悪いだなんて。でも……悲しいこと、ね。とても」
「そんな顔しなくていい。昔のことだ」

笑みさえ浮かべてマニーは言った。しかしその言い方には頑なさを感じた。

「ねぇ、マニー。わたしはあなたのことが知りたいのよ。もっと話を聞かせてくれない?」
「もっと?何の話を」
「だからね。奥さんとお子さんと、マニーのこと。もっといろいろ」
「昔のことなんだ。これ以上話す必要はないだろう?」

昔のことだからとか必要とか不必要とか、そういう問題じゃないでしょう。率直に言って腹が立った。怒鳴ってしまうところだったし、怒鳴ってしまえればよかったのだ。
それなのに気づいてしまった。押し殺すような微笑みが、こわいくらいに張りつめていた。わたしから視線をそらしたマニーは、わたしを拒んでいた。足元にきっぱり引かれた白線。踏みこえることはできなかった。

ふたりについて。
わたしが知らされたことは、とても少ない。ないに等しい。
ふたりについて。
教えてもらえたのはいくつかの情報でしかなく、彼は彼自身の思い出を語ろうとはしなかった。
いつもわたしを守ってくれる強い人。正しい人。
マニーへのそんな認識が変わったのは、思えばそのときからだった。

+ + +

話を聞いてまる一週間。自分にすれば悩みすぎるほど悩んだ末に、わたしは彼の同居人たちと会う約束をしていた。ちょうどマニーの出勤日にふたりの都合がついたので助かった。うちで話そうという誘いは断られてしまったから、場所はわたしと弟が住むマンションにほど近いテラスレストランだ。
ランチタイムは過ぎ、夕飯にもまだ早いという半端な時間帯。お客は少なく、せっかくのテラス席を利用しているのはわたしたち三人しかいない。

「エリー!頼むから!早まらないであげて!」

飲み物を出したウェイトレスが店内に戻っていくなり、とつぜんシドがテーブルに身を乗り出した。頭まで下げられたのでびっくりする。

「えぇっ、シド?どうしたの?早まる?なにを?」

ふたりを呼び出してまでお願いをしたいのはこっちのほうなのに。困り果て、シドの隣に助けを求めた。

「ディエゴ、どういうこと?」
「おい……いきなり本題か……。あのな。エリー。なんだ、その。……マニーと、別れたいんだって?」

ぼそぼそと話し出したディエゴはおそろしく真面目に、おそろしくとんちんかんなことを口にする。

「マニーと別れたい?わたしが?」
「そうだよエリー!だから今日会うこと、マニーに内緒にするんでしょ!?でも駄目だよそんなの!エリーにフラれたりしたら、ほんとにマニーってば、どうなっちゃうかわかんないよ!」
「だな……死にかねない」

縁起でもない。けれど彼らは真面目も真面目。大真面目で、とがめられる雰囲気じゃなかった。なるほどたぶん、用件は会って話したいと頼んだから、こんな憶測を招くことになったのだろう。
わたしは笑った。ふたりともすごく可笑しいし、優しい。おかげで、気分が少しほぐれたみたいだ。

「違うわ。逆よ。ぜったい別れる気がないから、今日はふたりに話を聞きたいの」
「別れる気が、ない?なんだ、俺はこいつから……。おいシド。別れる云々ってのは、エリーが話したんじゃなかったのか?」
「あれ?えぇと……?うぅん。それってオイラの予想だったかもぉ。あは、言わなかったっけ?」
「言ってねえよ!おまえなぁ!」

シドを通してディエゴにも約束を取り付けたので、誤解が大きくなってしまったらしい。

「ディエゴ!用件を言わなかったわたしが悪いの!マニーには内緒にしてって頼んだのも、よくなかった。シドだって悪い想像しちゃうわよね」
「べつに君のせいじゃないだろ」

わたしたちを心配してくれる彼らに訊ねていいものか、まだためらいは残っていた。でも、ここでやめたらもう動けなくなる確信もある。ぐずぐずと立ち止まるのは嫌いだ。

「シド、ディエゴ。わたしね、マニーの家族について、聞かせてほしくて」

ふたりが息を呑むのが分かった。

「……シドか?」
「へ?なに?ちっ、違うよオレじゃないよ!?こんなこと、勝手に喋ったりしないよ!」

驚愕を先に収めた(あるいは隠した)のはディエゴだった。低く呼ばれて、ぽかんとしていたシドが首を振る。

「ディエゴ。シドじゃないわ。この前ね、本人から聞いたの。結婚していたって。奥さんとお子さんを亡くしたって」

ふたりの両目がまたまん丸くなってこっちに向く。ディエゴのこんな顔を立て続けに見られるなんて貴重だ。

「マニーが?話したのか。……いや、あいつは話すか」
「そりゃマニーなら隠さないだろうねえ。真剣だもん、エリーのこと」

今度は先にシドが調子を取り戻して笑う。嬉しそうにされると、気まずい。すすったお茶の味が全然わからない。

「でもね、その、詳しいことはほとんど聞かせてもらえなくて。だからふたりはどんなふうに聞いてるか、教えてほしいのよ。もし、よければ」

ディエゴもカップを口元に運ぶ。砂糖も入っていないコーヒーなんてどこがおいしいんだろう。マニーに今度訊いてみようかな。そんなことを思い、勝手ながら彼がここに揃っていないことを物足りなく感じた。

「力になりたいけど、悪いな。詳しいことは俺たちも聞いてないんだ。君と違って、すすんで話してもらったわけでもない。たまたま写真を見ちまったくらいで」

落胆はしなかった。シドたちでさえそんなものかもしれないと、どこかで考えてはいた。
ふたりは寛大にマニーを思いやりながら、彼と一緒に暮らしているのだ。わたしと違って。シドたちが寛大でなければ、たぶんわたしがマニーのそばにいられることもなかった。彼らから話を聞こうとするなんて、やっぱり姑息な手段だったのかもしれない。

「マニーはさ。最初からずっとひとりぼっちだったみたいにしてた」

懐かしそうに、すこし淋しそうにシドが目を細める。

「一軒家にひとり暮らしかよーとかさ。食器はひとりぶんしかなくて料理道具も揃えてないわりに、冷蔵庫は大きめだなーとかさ。思ったよ?けど、普通はさ。だれかと一緒に暮らしてたんなら、家に残るじゃん。何かしらの痕跡っていうか。そういうのがどこにもなかったんだよね」
「……遺品は、ほとんど残してないらしいな」
「写真もさ。三人で写ってるのは、オレらが見たその一枚しか手元には無いんだって」

背すじがひやりとした。
足元にきっぱり引かれた白線。たとえ踏みこえたとしても、向こう側に広がるのは底知れない哀しみに違いなかった。
うつむいたわたしのことまで、ふたりは励まそうとしてくれる。

「エリー。あいつの気持ちに嘘はないぞ」
「そうだよ、マニーってばか正直だし。それにさぁ、ううーんと……あ、そうだ!エリー!ちょっとだけ聞いたことあるのがね?」
「なぁに?」
「オレが『奥さんきれいな人だよね』って言ったらさぁ」

にこっとしたシド。心臓が跳ねた。

「うん。言ったら?」
「そしたらねーマニー、『ああ、そうだろ』……だって!すっごい素直だったからびっくりしちゃったよあのひねくれものが。エリーといいさぁ、あれでけっこう面食いなんだなって、あぁいでっ!?」

テーブルの下で足を蹴られたらしいシド。ディエゴに横目で睨みつけられている。気にしないで大丈夫なのに――笑ってお礼でも告げればいいものを、ぼやっとしてしまった。
きれいなひと。強がらないで白状するなら、複雑だった。もしもわたしが願ったら、写真を見せてもらえるだろうか?シドと同じように言ったら、彼は同じようにこたえるんだろうか。
マニーがかかえる思い出。愛情。哀しみ。
嫉妬ともまた違う、なにか得体の知れない気持ちを抑えるためには、これ以上の追究をしないことに決める他なかった。わたしがマニーと共にいるために、それはそのとき必要不可欠なことだった。

+ + +

マニーは真剣だと、シドとディエゴに励ましてもらったのはいつだったか。すべてが言われた通りで、近くわたしは彼と夫婦になる。マニーは良い恋人だったけれど、それを上回る良いフィアンセになってくれた。たぶん、「カレシ」よりも「旦那さん」や「お父さん」向きの人なのだ彼は。
マニーの同居人と入れ替わりで、弟たちと引越しをした。ふたりを追い出すようで申し訳なかったけれど、シドもディエゴも快くわたしたちを祝ってくれた。彼らが引越し先をすぐ近くのアパートに決めたとき、誰よりマニーがほっとしていたのも知っている。
大事な人は誰も欠けない。めまぐるしくも幸福な毎日。
婚約して初めてむかえるその日も、ともすれば見過ごし、取りこぼしてしまいそうだった。なにげない日常、いつもと同じような一日として、霞ませてしまうところだった。

一緒に起きたときからマニーは沈んでいた。気づきながらもわたしは努めていつもと変わらない調子で、夫を送り出す妻のごとくふるまった。
本日の天気予報はくもりのち雨。
彼はいつもよりのんびり、というより丁寧に朝を過ごし、クラッシュたちより後に家を出た。仕事へ行くにはあきらかに遅い時間、スーツではない普段着で。
休みを取っていたのだろう。いちいち確認したり、まして行き先を問うことなんてしなかった。
目的を告げられることもなく、夕飯はいらないとだけ言い置かれた。無理に隠しだてしないところは彼らしくて、勘付いた自分自身が誇らしくもむなしくて、残されたわたしは一人きりで笑ってしまった。淋しさはちっとも薄れなかった。せめてマニーの帰宅まで天気がくずれませんようにと、そんなふうに祈りながら、わたしもいつもより丁寧に家事をして過ごす。
たとえば調理器具の大半はシドが買い揃えたもの。大きなテレビはディエゴが買い替えをしたものだそうだ。それ以外にも有形無形、ふたりの名残、ふたりの気配は、この家のあらゆるところに点在している。マニーがそれらを消そうとすることはないだろう。
勝てないなぁ、と苦笑がもれた。ここをわたしの家だと呼ぶには、まだまだ時間が足りない気がする。

弟たちと三人で夕食を済ませたころ、マニーは花束を片手に帰ってきた。わたしの望みが叶ったのか、ごく弱い雨が降り始めたばかりだった。淡くつつましやかな色調でまとめられた花々。変に凝視しないよう、自然に迎えるのが大変だった。
わたしがときどきマニーに贈られた花をいけるために使うガラスの花瓶。切り花はそこに、彼の手でいけられた。

「きれいね」

朝にくらべればやわらいだ雰囲気のマニーは微笑みを返してくれたけど、なにも言わないまま視線を落とす。わたしもそれ以上はなにも言うことができなかった。
弟たちなりにマニーの心情を感じ取ったのか、クラッシュとエディさえ、今夜は早々と二階の部屋へ引きあげていた。
手早くわたしもお風呂を済ませ、リビングを素通りして寝室に上がる。横目にしたマニーは入浴前に見たのとまったく同じ様子だった。
テレビもつけずパソコンもいじらず、ただソファの片隅にいた。伏し目がちの横顔。テーブルの上、いけた花を眺めている、のだろうか。
背すじがひやりとした。
逃げるみたいに階段をのぼった。ベッドに座り、日常を思い出す。
思い出した通り、化粧水や乳液をつけて、ボディクリームをぬった。これが日常だ。あとはこのまま眠ってしまえばいい。そうすれば今日が終わる。
きっと明日にはぜんぶが元通り。目覚めれば隣にはわたしの婚約者がいて、その人は和やかに朝のあいさつをしてくれるだろう。新しくていつもと同じようで幸福な一日が、またやってくる。
寝転がり、脚をのばした。ふくらはぎにひんやりとシーツが触れる。明かりが目にしみたので、ごろりとうつぶせになる。枕に鼻を埋め、視界を真っ暗にした。そう、こうやって、見ないふりをすればいい。気づかないふりをしていればいい。
このまま、眠りに浸かってしまえば――。

「――いいわけない、じゃない」

枕に爪をたて、くちびるをかんだ。
だって、大好きな人がひとりきりで悲しんでいる。拒まれるのは苦しい。でも、悲しんでいる彼をひとりにしているほうがもっと苦しい。
ぐずぐずと立ち止まるのは嫌いだ。あのときと現在と、わたしたちの関係だって変わった。いま、マニーのそばにいられるのはわたしだけだ。心を奮いたたせ、ためらいを断ち切って部屋を出た。


リビングは静かでうす寒い。細く開いた窓から夜風が入りこんでいる。しとしとと続く雨音に洗われ、空気は澄んでいた。

「なんだエリー。まだ起きてたのか」

かわらずソファの片隅にいたマニーは、何でもないみたいにわたしへ話しかけてくれた。その努力が淋しくて悔しくて、堪えようもなく胸がふさがる。

「エリー?泣いてるのか?」

立ち上がろうとした彼の肩を押しとどめた。

「今日、お墓参りに行ったんでしょう?」

すぐ目の前にあるマニーの顔を、驚きがよぎった。
ぼけた景色。カーテンが揺らめき、かすかな匂いが運ばれてくる。花束は、ふりまく香りまでつつましやかだった。

「……やっぱり気づいてたか。そう、今日が命日なんだ。だからさ。死者と語らってる」

無理をした軽口も微笑みも、痛々しいだけだった。だけどこれだって彼なりの自衛方法に違いない。ここで引き返してくれと、わたしは懇願されている。
ごめんなさい。首をふった。かさぶたをひっかくような真似になるのだとしても、わたしは白線を踏みこえる。

「わたしも一緒に行きたかった。ふたりにあいさつしたいって……そういうの、おかしい?マニーには迷惑なこと?」

淡々と訊ねたが、ともすればヒステリックに泣きわめきかねないバランスで立っていた。

「迷惑なんかじゃない」
「なら、どうしてひとりで悲しもうとするのよ?」

声を尖らせた拍子に、目のふちにひっかかっていた涙がついにこぼれた。こういうとき泣くのは嫌だったのに。悔しさが膨れる。とっさに 頬をこすろうとした手をとめられた。

「泣かないでくれ」

わたしに代わって、指の背で頬を拭ってくれるマニーは、その仕草はどうしようもなく優しい。いつもと変わらない。
けれど冴えた視界で見えてしまう。追いつめられたみたいに、怯えきった瞳だ。マニーにこんな瞳をさせているのはわたしだということが、切なかった。

「あなたが泣かないからよ」

ほとんど死にものぐるいで、彼の首に両腕を巻きつけた。

「かなしいのは、あなたのほうでしょう?」

マニーが体をこわばらせる。
彼の考えが解らないのならまだ楽だった。でも、解っているからもどかしい。
マニーの思い出も愛情も哀しみも、ぜんぶがちゃんとマニーのものだ。それでも、だれに分け与えようともしてくれないのが、とても淋しい。いつまでもひとりで隠し通そうとするなんて、きっと苦しい。

「大丈夫。わたししか、いないから」

耳元に口を寄せ、ささやき聞かせた。むかし弟にしてあげたみたいに、くせっ毛をくりかえし撫でたり、背中をさすったりした。こうしていると寒さもつらさも紛れるし、わたしは安心する。
マニーだって多少は同じように感じてくれることを信じた。

「――大切だった」

ただ息を吐いたような弱々しさ。ほそい雨音にすら、かき消されそうだった。
すがりつくように、抱き返される。頬に落ちる湿った息。苦しげに肩が震えるのは、呼吸をつめているからだろう。

「彼女が、いないなら……あの子がいない、なら。……生きてる意味なんて、私には、なかった。後を追いたくて、そればかりを考えて……ぎりぎりのところにいた私を、救ってくれたやつらが、いて」

ため息のようだった声は、かすれる涙声になっていた。途切れ途切れ、マニーは嗚咽して訴えていた。

「君と出会えて……今が、幸せなんだ。本当にこれでよかったのか、まだ、怖くなる。私は、ふたりを救えなかったのに……ふたりを、忘れかけてるのかも、しれないんだ」

義母を想った。弟たちを一晩じゅう抱きしめていたのは、彼女が死んでしまったあのときだ。弟たちがいてくれなければ、独りになってしまったら、わたしだってどんなふうに生きるべきなのか途方に暮れていただろう。目を閉じる。

「マンフレッド」

きつく抱き合っているから、マニーが全身をひときわ大きく震わせたのがはっきりと感じとれた。
腕にこめる力を強めて、顔はあげないでいいと、このまま聞いてほしいことを無言で伝える。

「わたしも幸せよ。あなたがいるから。あなたが生きていてくれてよかった」

わたしはマニーを繋ぎとめておける存在でありたい。それと同じくらい、マニーにもわたしを繋ぎとめていてほしい。

「ねぇマニー、あなたの大切なひとたちだって、わたしと同じ気持ちよ。ぜったいに」

マニーはなにも言わなかった。ただ、熱い吐息と涙で首すじが濡れていく。寒さは感じなくなっていた。清潔に香る夜風が気持ちいい。
むせび泣く背中を、いつまでだってさすっていられた。


「…………ごめん」

体を離したとき、赤い目をして謝るマニーはずいぶん決まり悪そうだった。男の人としては泣いてるのを見られて照れくさいのだろうか。わたしはちっとも気にならないけど。実際、長いこと抱き合っていたので泣き顔そのものはあまり目にしていない。

「ごめんじゃなくて、ありがとうって言って」

くっついていないとまた寒くなりそうなので、体を寄せたまま傍らに座りなおす。

「……ん。ありがとう。なぁエリー、来月の月命日にでも、一緒に来てほしい」
「ほんと?」
「ああ。遅くなったが、ちゃんと君を紹介したい。君にもいろいろと、話がしたい」

マニーらしくひかえめだったけれど、微笑みは曇りなく晴れやかだった。わたしまで気分がすっとする。

「ふふ」
「嬉しそうだな?」
「嬉しいわよ。そもそもマニーって無欲でしょ?『あれしてほしい』とか『これがしたい』とか言うの、珍しいんだもん。もっとわがまま言ってくれていいのに」
「どうかな。嫌われたくないから、わがままを隠してるだけかもしれない」

たまにこの人は、冗談めかして本心を口にする。おそらくわたしとマニーとじゃ、何をもってわがままとするかの価値基準だって違うのだ。

「わがままでもいい。正しくなくてもいいのよ。わたしはね、飾らないあなたが大切なの」

意気込んで主張すると、もう続けるなとばかりにマニーの指が耳の下へさし入った。
この際だからもっと伝えておきたいことはあったけれど、空気をふくませるように髪を揺らされ、まんまとわたしは言葉を忘れてしまう。温かくかわいた指、手のひら。どうしようもなく優しい触れかただ。

「愛してる」

穏やかなまなざしにもキスにも何もかもに、あふれんばかりの愛情がにじんでいた。気が狂いそうに幸せで、胸がいっぱいになる。
知ってるわ。わたしは照れかくしでこたえて、熱をもったまぶたに愛のこもったキスを返した。