遠くはないが近所でもない、自宅から十五分ほど歩いたところ。古いマンションの影で長いこと更地だったこの場にこうしてコインパーキングが設置されたのは、たしか半年くらい前のことだ。土地を遊ばせておくより有意義なのだろうが、この駐車場には車がめったにとまっていない。これで採算がとれているのか不思議だ。詮無いことを考えるのは、ここに出向いた目的を忘れてしまいたいからに他ならなかった。

「遅いぞ。この俺を待たせるとはな」

本日も駐車スペースはがら空きで、わざわざ空間のど真ん中にガットは立ちはだかっていた。きどって斜に構えている様子が毎度のことながら鬱陶しい。マニーはあわてず歩を進め、腕をのばしても届かない程度の距離をはかって男と対峙した。

「いちいちポーズをとらなきゃ死ぬ病にでもかかってるのか?目障りだからやめろ。それと、路駐をするな。小銭が惜しいなら私持ちにしてやる」

所有者の強い自己顕示欲を表だてるような高級車はパーキング前の路上にとめられていた。まさか駐車料金をけちっているわけでもあるまいが、いってさりげなく周囲を見まわす。
相手はめずらしく丸腰らしい。退路を失くすためだろう、ガットの横からマニーの背後へと動いた手下も二人のみで、凶器をちらつかせることはしていない。人通りが少ないとはいえ辺りは住宅地だ。当然ではある。

「こんなチンケな場所に俺の車をとめられるか。ま、あれも船に比べりゃおもちゃだけどな」

退屈そうにひげをなでるガット。そのおもちゃを自宅前に乗りつけられ、この連中が門扉のわきに並んだ光景は最低だった。
あそこの家族はカタギじゃないとでも近所で噂になったらどうしてくれるのだ。それが原因でエリーが主婦友達に避けられたりピーチがいじめられたりしたら、どう責任をとるつもりなのだ。

「移動してやっただけありがたく思えよ?情け深い俺様に感謝しろ!」
「さすがです船長!毛深いキャプテンガットー!」
「なさけぶかい、だっての」

高らかに自画自賛するガットを、愚鈍そうな坊主頭たちがやんやと喝采した。あのカリスマ性は敵ながら大したものだが、気にせず妻と娘を想う。
帰れといって帰ってくれる輩でもない。結果マニーが優先したのは、ともかく自宅からガットを引き離すことだった。利用者の少ないこの駐車場を指定して、そこで話をしようと誘い出す。車に乗せてやるという提案もあったが無論ことわり、単身ここまで歩いてきた。
ついて行くといって聞かないピーチにはママを守ってくれといいおき、エリーには娘をたのむと願った。すぐに戻ってくるからと約束したのだ。
早く二人のもとへ帰りたい。休日は家族サービスに徹するものと決めているのに、なにが悲しくてむさくるしい海賊なんぞに囲まれていなければならないのか。こいつらは何の権利があって、昼下がりの一家だんらんをぶち壊しに来たのだろう。

「それで。他にいいたいことはあるか?」
「は?ああ、終わったのか。さっぱり聞いてなかった」
「なに!?俺を無視するな!……俺にいいたいことがあるならいってみろ。今日は腹を割って話そうじゃねぇか」
「腹を割ってなあ。そりゃ実際にじゃないよな」
「もちろん。だがおまえがハラワタを抜かれたいんなら、喜んで」

仰々しくこちらに手をさしのべて、ガットは一歩前へ出た。後ろの男たちも同様にする気配。三対一の状況でも恐れはなかった。怖いのは、自分が傷つくことじゃない。

「内臓はこれで間に合ってる。いいたいことなら山ほどあるさ。せっかくのスカウトを蹴るのは忍びないが、どんな条件でも返事はノーだ。私はなぁ、おまえみたいに偉ぶったやつが大嫌いなんだ。自分が王者?恥ずかしげもなくそんな自称をするような人間には、特に!虫酸が走るんだよ!二度と私の家族に近づくな!」

一語一語くっきり、視線もそらさず主張した。目の前の男にもたらされた怒りや恐怖はすべて鮮明に覚えている。忘れるつもりも許すつもりも毛頭ない。
緊迫した空気をやぶるわめき声は、目前ではなくマニーの背後からあがった。

「おまえ!黙って聞いてりゃあ好き勝手ぬかしやがって……!」
「スクイント!」

気色ばんで懐に手を入れた部下を、一喝した人間こそがガットだった。血走った両目が不細工なウサギみたいだなと、悔しげに縮こまった男をかえりみてマニーは思った。

「勘違いしてるらしいな。俺がおまえをまだ部下にほしがってると、そう思ってんだろう」
「そうだ私はあんたの手下になんか、なに?違うのか?」

ガットの反応は予想と食い違っていた。にたりと嗜虐的な笑みを浮かべ、身構えるマニーにまた進み寄る。

「まさか。仮にな、おまえを脅して俺の手駒にしたとしよう。その手駒を、俺は信用してつかえるか?忠誠を期待できるか?」

歌うようにいい、なれなれしく肩に手が回された。
マニーは黙って耳をかたむける。この接近状態は不快きわまりないが、話の終着点が見えるまでは払いのけるべきではない。そんな直感があった。

「俺の言葉は絶対で、俺はおまえの大切なものをいただくといったんだ」

おかれていた手のひらが肩口から肩胛骨へずれ、さらにゆっくり、蛇行しながら背骨をなでおりていく。

「けどなぁ。大切なものってのは、なにも女房と娘だけじゃねえだろ?」

けわしく眉間を寄せていたマニーだが、ぐっと腰を抱くようにガットの腕が動いたことではじめて当惑を声に乗せた。

「おい、何のマネだ?」
「他のものをな。喜んで俺に差し出すなら、今後おまえの家族には手を出さない。話したいのはそういうことだ」

他のもの?身をよじって聞き返そうとした矢先だった。背中や腰とよぶ部位の、さらに下へ触れられて、マニーの声帯は固まった。
涼しくなってきたから今はいているのはコーデュロイのパンツだ。その素材越しでもわかる触感。これはもうふれる、なでるといったひかえめな働きかけではないだろう。

「悪くない条件だろ?なあ」

まさぐられている。もしくは揉まれている。尻を。男に。尻を。
一点一点現状を確認するごとに、気が遠くなるような悪寒におそわれた。怒りとも恐怖ともまた異なる感情で鳥肌がたつ。

「は、はは……変質的だとは思ってたけどな……。真性だったのか」

女のようなまるみもやわらかみもない臀部のなにが良いのか、はい回ろうとする手首をつかみ留めてマニーは薄笑う。おもしろいことはひとつもないが、笑い飛ばさなければ自分の気まで狂いそうだった。
このまま腕をへし折ってやるのが最善の方法に決まっている。しかし家族の安全、その保障。易々と手放す選択はできなかった。二人をおびやかすものなど世界のどこにも在ってはならない、それこそがマニーにとっての絶対だ。

「参考までに、もっと詳しく聞かせろ。私に何をしろってんだ?」

密着した体勢からわずかでも逃れるよう、できる限り顔をそむける。むこうの表情など見ないほうが楽だった。

「難しいことじゃない。おまえがするのは、泣いて俺様に許しを請うこと。おまえがしないのは、俺様に逆らうこと。簡単だろ?子供でもできる」
「…………。手駒にはいらない。かわりに、手ごめにされろってことか?」

自分で口にして吐き気がする。正気の沙汰じゃない。耳ざわりな笑いは、マニーの問いを肯定した。

「せいぜい励めよ?おまえ一人で俺の気が済まなきゃ、女子供に用ができちまうかもしれん」

頭の芯が冷えていく。この男の言葉に一瞬でも希望を持ちかけたことが腹立たしかった。
大事なものと引きかえならば、自身の命も惜しくない。しかし身をもって学んだのだ。自分がそばにいなければ、この手で大事なものを守ってやれない。大事なものを守るには、自分を守る必要もある。

「命じゃ足りねぇ。この俺が直々に、死よりも重い屈辱をくれてやるよ。マニー」

耳もとに息を吹きかけられたのが、最後のスイッチになった。

「……こんなに」
「んん?」

利き手を握りかためる。勝利の確信でにやつく横面に、狙いをさだめる。
工程は迅速かつスムーズだ。

「――こんなふうに、殺してやりたいなんて思った相手はあんたが初めてだよ、キャプテン!」

このゼロ距離にあっても最大の力をこめるべく、限界まで半身をひねる。
マニーの思考が正常に機能していたのは、その瞬間までだった。

+ + +

「パパ!」
「マニー!」

自宅の前でいち早く父親を見つけたのは、小動物のようにきょろきょろしていたピーチだった。
エリーも娘に続いて夫へ駆け寄る。まとまってすがりついてきた二人を、マニーは難なく受けとめた。

「よかった、マニー。大丈夫だった?けがはない?」
「このとおり五体満足だ。外で待ってなくてもよかったのに」
「のんきに座ってられないよ、あたしもやっぱり一緒に行くんだった!」

昔のようには見なくなった、泣きだしそうな娘の顔。マニーは力のぬけた笑顔で妻子を見つめ、彼女らをぎゅうと抱きしめる。頬をすりよせたエリーの髪はあまい香りがして、よどんだ気分を落ちつけてくれた。

「ふふ、くるしいよパパ。っていうか恥ずかしい。ここ、外っ」
「マニー?ほんとに大丈夫なの?」
「ああ。大丈夫になりたいから、もうすこしこのままでいてくれ。精神の充電とか消毒とか浄化とか、そういうことをしてる。いま」
「充電?」
「消毒?浄化?ねぇあなた」
「…………よし。もう大丈夫だ。うん」

体を引いた夫をまじまじ観察し、はっとエリーは息をのんだ。

「マニー!その手」

右手首をつかむ。手のひらのほうには異常ないが、指の背中側。主にして人さし指と中指の根元は皮がすりむけ、ほとんどあざになりかけていた。これがどういう行為の代償か、エリーはすぐに察した。

「ねえ。マニー」
「ん、加減しなかったからこうなっただけだ。頬骨を粉砕したくらいの手ごたえはあったからな」
「ふんさ……。執念深いやつだから、慎重に話をつけてくるって。いったわよね?どうしてそんな」

上目に見ると、マニーは暗い顔で傷めた拳をさすった。なにかよほど我慢ならないことがあったのだろう。彼を責めたわけではないエリーはため息をつく。

「あなたが話さないなら、それは聞かなくていいことなのよね」
「っ!さすが!きみは分かってくれてるなぁ!ああエリー、きみにだったら私はどんなひどい目にあわされてもいい気がする」
「ど、どういうこと!?どんな目にもあわせません!ほんとに大丈夫なのマニー!?」
「はー……。あたし邪魔?だったらどこか遊びに行ってるけど」
「邪魔なわけないだろう。ピーチにだって、私はなにをされてもいいからな」
「えっほんと?じゃあお小遣いをもうちょっと多く」
「そういうのは却下だ」

もし次があってもマニーとあの人を会わせるべきじゃないようだ。虫の知らせか女の勘かで、エリーはそっと決意する。家庭の平穏を守るのって大変だ。