薄暗く淀んだ目。年月を経て蓄積した強い野心や疑心が、この男の瞳を曇らせている。プレジデントチェアに深く預けられた背中。生地も仕立ても最高級のスーツを着こなす、その立ち居に憧れを覚えたことがあるにはあった。過去の話だが。思えばソトが上着を脱いだ姿を滅多に見なくなった。こっちからも見せなくなった。
間にある広いデスクなんざ比じゃないような遠い隔たりを感じながら、その距離を意識しないよう意識する。慣れたものだ。呼吸するのに等しくたやすい。

「女が見つかった」

開口一番、面白くもなさそうな顔でソトは告げてきた。すぐに話題の見当がついたので先を促す代わりに頷く。女というのは俺たちが仕切っている非合法カジノの従業員。何日か前、そいつが店の売り上げを持ち逃げする騒ぎが起きた。

「遅かったな。とっくに故郷へ高飛びされたと思ってたよ」
「まったく、使えない奴らばかりだ」

捜索を命じられた手下どもは血まなこになっていたようだが、確かにお粗末な出来だ。
ソトは順調に出世した。使う人間も扱う金も、昔の比じゃなく増大した。しかし比例して足元はどんどん見渡し難くなっている。
ため息とともに俺から逸れ、窓の方へ投げられた視線を無意識に追う。下りたブラインド――仮にブラインドが無くとも窓外に快い風景があるわけじゃないにしろ――羽の隙間から床に、わずかな朝陽が滴り落ちているだけだった。

「ディエゴ。お前が行け。下の連中は信用できん」

たかが従業員の手に渡る程度だ。売り上げといってもごく一部。じっさい賭場には盗られた額の、少なく見積もっても数十倍は金があった。金より何よりボスが取り戻したいのはメンツだろう。さらに上へのし上がるためには小石ひとつも捨て置けない。慎重な男だから、その小石に何時つまずくかも判らないというわけだ。

「女は殺せ。……やり方は、好きにしていいぞ」

冷やかすような下卑た笑顔は仮面。その下にあるソトの素顔は、能面に近いと知っている。色も変えずに俺を見澄まし、試している。なぜ、なにを、試されているのかまでは読み取れない。元より必要最低限のこと以外をする気なんて無かった。ジーク辺りなら涎を垂らしそうだが、俺はこれから殺す女を嬲るほど不自由はしていない。殺すなら殺すのみ。そんなことより明らかにしておきたい引っかかり。

「女、は?」

他に標的がいるような口ぶりだ。俺の疑問を受けたソトは、さっきのよりは笑みらしい笑みを口端に浮かべる。胸騒ぎがした。

「ガキがいる。まだ歩けもしない赤ん坊だ。そっちは生かして、連れて来い」
「ガキを?」
「お前だって知ってるだろう?子供は金になる」

すぐに返事ができなかった。気になったのはモラルがどうこうといった、くだらないことじゃない。少なくとも俺たちの世界では倫理や道徳など、これっぽっちも力を持たない。子供が売り買いの対象になるのも、商品として需要があるのも、知っている。ただ。それがこれまでのソトのやり口とは全く違うことに、小さな動揺を覚えていた。

「……新手の商売でも、始める気か」
「これが上手く運べばな。手を拡げるのも悪くない」

なにを進言するでもなく、俺は阿呆みたいに突っ立っていた。回転の鈍った頭で、どうしてか売買された子供の行方について考えを巡らせていた。ガキの「用途」。大人とそれほど変わらないだろう。売春、強制労働、赤ん坊というなら臓器の提供元になるのが妥当なところか。

「どっちにしろ。これくらいの見返りを貰わなけりゃ、俺の面目が保てない。くれぐれも頼むぞ?ディエゴ」

薄暗く淀んではいても、閃く眼光だけは昔と同じだ。射られると神経を引き絞られる思いがする。
ヘマをしたならそのヘマを補える成果を出して始末をつけろ。この男に叩き込まれた事項の一つがふと脳裏によみがえった。
これまでのやり口とは異なるが、これもソトらしいといえばらしい処置ではあったのだ。それでも俺の内に芽生えた違和感。どこから生じるのか、捉えどころのない胸の悪さ――を拭いきることはできなかった。
手近の灰皿を引き寄せる動作が、話は終わったと告げている。黙って背を向け、部屋を出る直前。

「どうして金が必要だったんだろうな」

ノブに手をかけたまま、意味もない質問が口をついた。

「さあな。それこそ知る必要があるか?」

返事は平坦なものだった。取るに足らない、まさしく道端の石ころを蹴り飛ばすような。俺は振り返らなかった。欠落した感情の代わりに心臓へ押しこまれているのは氷塊だ。常に俺の指先までを冷やしている。足を止めて目を閉じ、その薄ら寒さを意識しないよう意識する。慣れたものだ。呼吸するのに等しくたやすく、体が震えることはない。