助手席に下半身を滑らせると、ドアを閉じきるのも待たずにソトは車を発進させた。サイドミラーに映った間抜け面の同級生たち。急速に遥か後方へ遠ざかる。

「またケンカを吹っかけられていたのか?一度くらい買ってやったらどうだ」
「あんな頭がからっぽの奴らに構ってられない。それに、ケンカは買うより売る主義なんだ」

後部座席にバッグを置いて言う。ああして群れてはいるが、せいぜいが気の弱い後輩から小遣いを巻き上げたり、せこい万引きをしたり。相手をする価値もないやつら。向こうも俺がいけ好かないなら放っておけばいいだろうに、いちいち突っかかってくるのは理解に苦しむ。

「そうか。まぁ、これでめでたく俺が後ろ盾だと思われたわけだな」

まったく愉快じゃない誤解だが、ソトはおかしそうにのどを鳴らす。
道ばたなんかで俺に絡んだのが間違いだった。傍らに止まった黒塗りの車の運転手を見て、あいつらは蒼白になっていた。ここらでソトの顔は知られている。今後はやつらに近寄られることも無いだろう――虎の威を借る狐みたいで多少不本意ではあるが。とにかく、これで俺にくっついてくるような物好きは学校に一人もいなくなるはずだ。慣れた独りは気楽でいい。
どこにでもいそうなひねたガキのいったい何を好んだのか、知り合ってから時おりソトは俺を車で連れ出してくれる。目的はだいたいが昼飯や晩飯。要するに目的なんてあって無いようなもので、それでも気ままなドライブは楽しかった。自分に気をかけ、期待してくれる他人。初めて見つけたその存在に、俺は舞い上がっていたのだ。
シートをすこし倒して足を投げ出し、ジャンパーのポケットから煙草とライターを取り出す。近ごろようやくこの匂いも舌になじんできた。リラックスできるこの空間で味わう煙草が一番うまい。

「こっちにも寄こせ」

運転席からの注文に従ってダッシュボードから自分のとは違う銘柄の箱を取り出し、抜き出した一本を口元に差し出す。フィルタが支えられたのを確認してから火をつけてやった。タイミングよく赤になった信号でブレーキを踏み、ソトは手早く煙をふかす。再び車が動き出すときには、煙草は唇の端に挟まれていた。

「なぁ、葉巻は吸わないのか?」
「葉巻?」
「ああ。そっちのが似合うよ。あんたに」
「お前もまだまだ無知だな」

煙を吐き出し、ソトは含み笑いをした。子供へ向ける微笑ましげなそれ。

「ガキ扱いすんなよ」

俺は憮然として煙草を灰皿の底でもみ消した。こういう行動こそがガキっぽいと理解はしていても、反発心を表現しないでおとなしく座ってはいられなかった。ソトは静かにハンドルを握っている。こっちの態度を気にも留めてないような様子にますます腹が立って、サイドウィンドウを全開にした。大量に侵入してきた寒風がこもった煙をかき出していく。頭を冷やすのには役立った。

「ディエゴ」

根元まで灰になった吸殻を捨て、切っていた暖房をオンに戻し、ゆるやかにアクセルを踏む。ソトの手で窓が閉じられたのは、車内と車外の温度が完全に同じになったころ。馬鹿なことを言ったと、俺はそのとき後悔のまっただなかだった。
期待されている自覚があった。だからこそ失望され、切り捨てられるのは怖かった。

「葉巻なんてのはな。こうして片手間に吸えるもんじゃない」
「……え?」
「切らしたらそこら中で買えるもんでもないだろう。そういうのが不便で、嫌なんだ」

その説明。その穏やかさを、俺は信じられない気持ちで聞いていた。ガキの戯言だと呆れられたんじゃなかったのか。どう応えるべきか困ったので曖昧にうなずき、落ち着かず二本目の煙草をくわえた。

「ディエゴ。俺はお前を買ってる。卒業したら、俺のところに来い。俺のそばで働け」

唇からフィルタを離さなかったのが不思議だ。心臓が高鳴っていた。
簡易ライターを握る手を、横から伸びてきた手につかまれた。

「そんな安物で火をつけるな」

俺から取り上げた使い捨てのガスライターを懐にしまい、次にそこから出てきた男の手。くすんだ銀色をつまんでいた。

「お前にやる」
「うわ?」

放り投げられたのは見慣れたオイルライターだった。ソトはいつもこれを使って煙草に火をつけていたのだ。

「でも、これ……」
「欲しがっていただろ?」

前々から格好いいとは感じていた。しかし気づかれていたなんて、夢にも思っていなかった。重なる驚きのせいで、俺の目は真ん丸くなっていただろう。

「手付け金代わりだ。お前は俺に似てるよ、ディエゴ」

にやと笑ってこっちを流し見る表情。無邪気と表現しても差しつかえない明るさがあった。実に稀だろうその笑顔と、真っ暗だった未来に道しるべを与えられたことによる高揚感。つい気の利かない冗談が口をついて出た。

「『手付け』ってなんか、やらしい言い方だよな」
「……くだらんことを抜かすな」

ガキが、と毒づいた目じりに初めて人間らしい色を見た。俺はそれで腹を抱えて笑った。そんなのは本当に初めての経験だった。ひとしきり大笑いしてから、仏頂面でくわえられた煙草にさっそく火をつけてやったものだ。
――この人についていく。
想像よりもっと心地いい手ごたえで灯った熱は、ちっぽけな決意そのままだった。ソトの言う通り。俺は無知なガキでしかなかった。選んだ道が正しかったとは思わない。
しかしあのときのちっぽけな決意は確固たる真実で、それだけは純粋に尊かった。悔やみはしない。未来なんて不確かなものは信じちゃいないが、しかしおそらくはいつまでだって、誇りにおもう。