「んー、やめとく」

おそらく本人の自覚はないはずだが、そう聞いたマニーの顔に不満が浮いたのを知っている。外出好きのシドだ、誘いを断られる予想はしてなかったんだろう――なにしろ俺も意外だった。

「うざったいだろ?どうせなら一緒に行ってこいよ」
「まだいいよ。もうちょい平気」
「べつに無理には誘ってない。行ってくる」

未練はないらしく、さっさとマニーは家を出て行く。目的地は床屋だ。



「……何かあるんだろ。今日」

家主が出かけた直後からシドは台所に立ちだした。戸棚から取り出されているのは量り、ふるい、泡だて器やら。詳しくないがケーキの類を作るつもりだというくらいは判る。

「実はね。人と約束があって」
「女か?にしても、何でマニーに言わなかった?」

髪を切りに行く予定をマニーは先週から話していた。わざと今日、その約束を入れたに違いない。

「なんでって。本人の前ではしにくい話もありますし?」
「なに?」

聞き返したが頓狂なチャイムの音にかき消され、相手の耳には届かなかった。

「あ、オレ出るから!!」

騒がしく俺の前をすり抜け玄関に向かうシド。言われるまでもなく応対に出るつもりはないので、ソファに座ってテレビをつけた。厄介な訪問販売なんかの場合は俺が行った方が断然早いから、それ用の心積もりは一応しておく。

「こんにちはー。ディエゴ」

玄関からこっちへ戻ってくる足音。かけられた挨拶。リモコンを落としそうになった。

「……エリー!?おい、マニーは出かけたぞ?」
「いいんだよ。今日はオレのお客さんだから」

なぜか勝ち誇った笑顔で彼女に続くシドは居間のドアを閉める。てきぱきコートを脱いでいるエリーに、かける言葉がみつかない。動揺を抑えるためテレビに向き直ったがまったく集中できず、背後の会話へ耳をそばだてた。

「頼んだもの買って来てくれた?」
「うん!買ってきたわ」

エリーはシドに菓子作りを教わっている。この家に来るのも一度や二度じゃない。しかし、マニーのいないこの家に、マニーに内密で、彼女を招き入れるのはどうなんだ。シドはもちろんエリー自身にも、男二人と三人きりになるような状態は避けてもらいたい。もっと自衛してくれ頼むから。

「やだシド、なに前髪に付けてるの?」
「ん?洗濯ばさみ。邪魔でさぁ」
「ヘアピンなんかは…持ってないか。男の人は」

そもそもエリー以前に、マニーも俺たちを信用しすぎている。シドと二人きりで会うのを黙認しているのはどうなんだ。そんなんだからこんな事態が起こるんだ。いや、確かにエリーを女として意識したことは、少なくとも俺は、一度も無い。意識しようとしたってできそうにない。シドも同じだとは思う。

「わたしのピンつけてあげる。こっち来て!」

台所からテーブルに移ってきたやり取りが近くなる。椅子を引き、鞄を開く物音。

「前髪っていえば。切ったよね?エリー」
「あ、うん。やっぱり分けるより下ろしてようかなって」

…ああ。なんか雰囲気が変わった気はしたんだよな。さすがにシドはめざとい。

「前のもよかったけど、それも可愛いよ」
「ありがと。でも、シドはさすがだね。マニーはね、ちょっと髪切ったくらいじゃ全然気づいてくれないんだから」
「はは、そうかもね」
「そう!ひどい時なんかね、『ああ。なんか雰囲気が変わった気はしたんだよな』だって!」

……耳が痛い。シドの方が特殊じゃないのか?「本人の前ではしにくい話」の一端がこれか?
居心地悪いついでに煙草を吸いたくなってきた。騒ぐ二人を残して、俺はそっと居間を抜け出した。



「ディエゴ!見て見てっ」

戻った俺を出迎えたのは、エリーに両肩を押されたシド。「見て」というのは妙なことになっている頭らしい。
鬱陶しく伸びていた前髪は目を避けて分けられ、大量のヘアピンでとめられている。その、わざわざ二本をクロスさせたりする必要はあるのか?そういう小細工をしなけりゃ四本程度で充分だと思うが。
しかしその前髪が霞むような存在感で、シドの頭のてっぺんに結ばれた輪ゴム――と呼ぶのは適切じゃないだろう飾りがある。さっきまでは、エリーがあれで髪をまとめていたような。

「可愛いでしょ?」
「でしょ?」
「か、かわいい…?」

エリーはいいがお前は首を傾げるなシド。期待に満ち溢れた二人分の視線が俺に突き刺さっている。

「可愛いわよシド!似合ってるからそのシュシュもあげる」
「マジで?うわーありがと、これいいね!」
「うん、使って。ね?ディエゴ。可愛いよね?」
「…あー……」

エリーは冗談じゃなく、本気でシドを褒めているらしい。「かわいい」の判断基準が絶望的なまでに違う。嘘はつきたくないが否定すればがっかりされそうだ。

「…………見違えた。な」

だから精一杯正直に、ギリギリのラインで感想を述べた。

「シド、ディエゴも見違えたって!」
「やだー褒めてもなにも出ないんだからっ」

幸い不興を買うことは避けられた。きゃっきゃとはしゃぐ二人組み。
これ相手に自衛を心がけろと言う方が間違いなんだと理解はできた……ってことは、俺自身もマニーたちにはこいつと同じレベルに見られているのか?
俺は疲れていた。理由ははっきりしないがとにかく疲労していた。後悔していた。床屋には、俺が付き合うべきだった。