尖り声に名を呼ばれ、シドはソファの上で首をすくめた。手にしたポータブルゲーム機を一時停止する。

「はい?」

目前で仁王立ちしているのはマニーだ。多分おそらくきっと間違いなく、怒ってる。理由に心当たりがないのもかえって空恐ろしい。

「…なに?」
「髪。濡れたままにしておくな。乾かせ」

大真面目な顔で言われた。おそるおそる訊ねたシドの思考にまで、ポーズがかかったようだった。

「風邪でも引いたら面倒だろ」

なんだそんなことか。肩にかけていたバスタオルを形だけでも頭に載せて、再びスタートボタンを押す。

「いいって。めんどいし」
「……おい」

上方から降る声がいよいよ低くなり、手元から突如ゲーム機が奪われる。

「うわ!?あああ!セーブ!まだそれセーブしてない!待ってぇ!!」

ここ数十分のプレイ時間イコールここ数十分の戦果。無駄にするのはあまりに惜しい。スイッチを切ろうと無慈悲に動いた腕へ追いすがる。しかし頭上に掲げられては、シドが自力で奪還をなし遂げることは困難だった。

「待ってやるからそっちに移れ」

掴みかかられながらマニーが示す、ローテーブルを挟んだ向かいの三人がけソファ。命じられる通り、渋々シドはそこに回って腰を下ろす。

「はい座った!これでいい?」
「ああ。ほら」

ゲーム機は存外あっさり返戻された。どうして座る位置を移動させられたのかは知らないが、あまり気にしないことにする。それより今は買ったばかりのゲームが大事。
小さな画面にシドがせっせと集中するあいだ、少時リビングから姿を消していたマニーは洗面所からドライヤーを持ち出し、手近のコンセントにそのプラグを差し込んだ。
気配でその行動を察したシドは内心で驚く。場所の移動はドライヤーのコードが届くようにとの為か、いや、だけど、まさか?はらはらしつつもそ知らぬふりをしていると、背もたれの後ろで騒々しくモーターが唸りを発し始めた。同時に後頭部を焼き出す熱風。粗雑に髪をかきまわされ、顔が前後にぐしゃぐしゃと動く。とてもゲームなどしている場合じゃない。なんとか途中セーブを済ませ、シドはたまらず悲鳴を上げた。

「あいたた、ねぇちょっとマニー!?熱い!あっつい!」
「自業自得だ、ちょっと静かにしてろ」

でたらめだったマニーの手の動きは、やがて乱れた髪を撫で整えるようなものに変わっていった。湿った部分を指先で探し、そこに温風が当てられる。手持ち無沙汰で胡坐をかくシドは、裸足の指先をじっとおとなしく見つめていた。
――何だよこれ?
自分に対して口を開けばお説教か命令形、お人よしでいいやつだと理解してはいるが、同居人以上の関係になってからだってその優しさをストレートに向けてくれることはまず無いマニー。けれど今、触れてくる手のひらはこうまで優しい。ぱさぱさした髪を熱心に濃やかに梳かれ、不覚にも胸が高鳴ってしまう。相手はどんな顔で手を動かしているのだろうか。この位置関係、前髪の間からでは、背後を確認する術は無い。

「…落ち着いてきたな」
「な、なにがっ?」

変な具合に声が裏返った。鼓動のことかと思ったのだ。温風のせいではなしに顔や胸を熱くさせていることなんか、絶対に知られたくないのに。

「なにって、髪の色」
「あ……?あ、あぁ、そだね、染めてから結構経つし」
「このくらいの方がいい」

金茶は地毛だが悪浮きしない程度にカーキ色をさしている。肩に落ちた毛先をつまむように滑っていく指先。
その仕草や声の、穏やかさ。
どれもに艶めいた含みがあるのは気のせいだろうか。

「……あのさ」

回りくどいのは面倒だ。触れてくる手を払うついで、シドは背もたれに頭を載せた。マニーの顔が逆さになって視界に映り、彼の手によりようやく騒々しいドライヤーが黙り込む。

「どうした」
「あのさ。キス、してくんない?その気があるなら」

さかさまの顔が目を丸くする――ああやっぱ気のせいか。がっかりして元に戻しかけた額を、優しい手のひらが撫でた。

「ま…」

名を紡ごうと動いた舌を、その名の主は舌先で止める。求めた口づけは得られたものの、上下あべこべになった唇では上手く重ね合わせることができなくて。もどかしくシドは柔らかな茶髪に片手を埋めて支えにし、かかる重みに押し下げられないよう、懸命に自身の顎を持ち上げる。
ちゅっとついばまれるたび鼻先を掠めるマニーの首すじから、体温にあたためられて石鹸の匂いが香った。

「……その気、あったの?」

理性的なこの男にしてはずいぶん情熱的なキスの後。背もたれに載せるのではなく振り返って見ると、マニーはばつが悪そうにああ、だかまあ、だかと呟いた。本当はもう少しからかって楽しみたいのだが、こちらもその気になってしまってそれどころではない。

「じゃあさぁ。とりあえず後ろにいないで、こっち来てよ?これじゃ何にもできねえじゃん」

もっとちゃんとキスだってしたいのに。背もたれを挟んでいては抱き合うことすら難しい。

「…だめ。上、行こう」
「うえぇ?でもさぁ」
「抑えられる自信がない。これ以上やったら」
「へ」

そんなに切羽詰まってたの?とこれはからかうのではなく純粋に訊ねたかったのだが、怒られそうなので黙っていた。それは恋人冥利に尽きるとも思うし。あんなに夢中になっていたゲームの存在すら、とっくに記憶から消えていた。

「抑える必要、なくない?ベッドじゃなくていいよ。ここでヤろーよ」
「で、できるか、軽く言うな!」
「でもオレ、もう待てそうにないんだよね――またさぁ。さっきみたいに触ってよ?」

にっこり、と。満面の。それはもう邪気の無い笑みで、シドは言う。

「髪以外のところにも」