もう居候という身分ではない以上、気がねする必要もないのだが、喫煙するときはなんとなく窓際に陣取ってしまう。たいした習慣だ。ディエゴは苦笑し、吸い殻を灰皿に押しつけた。
ちょうどあてがわれた部屋に接していたこともあり、あの家のベランダは気に入りの個人スペースだった。ひきかえこの簡素なワンルームにはベランダが備わっていない。住居選びにこだわりはなかったし住めば都というものの、これは不満点に近い。
遅い夕食後の一服、今もディエゴは片ひざを立て床に座りこんでいる。
退屈まぎれにもう一本とケースからとり出したところで、ライターが手元にないことに気づいた。ここで腰をおろす前に火をつけたのだ。ライターはベッドの上に放りっぱなしである。ふりかえろうとした横から、すいと灯りがさし出された。

「はい、どうぞ」

濡れ髪をそのままに微笑んだシーラ。ディエゴが愛用しているトニックシャンプーは好みじゃないとかで、かぎつけない香りがただよう。
いかついオイルライターを片手で扱う仕草は、女だてらにこなれていた。

「よせよ」

商売女みたいだぞ。
口走りかけたのを理性で押しとどめ、ライターをひったくる。
脳裏を焼き去った酷薄な感情。憎しみとも嫉妬ともつかない悪意が、的確に彼女を傷つけることばを、ほんの一瞬だけ望んでしまった。
実際のところシーラはディエゴと同じく、むしろそんな女たちを使う立場にあったのだろう。不特定多数の客などではなく。シーラがみずから火種をさし出していた男は、おそらくただ一人のみだ。

「ディエゴ?」

不審を浮かべながらも彼女は何かを察したようで、どうしたの、と問われることはない。かわりに、あらためて火をつけようとしたタバコをひょいと奪われた。

「もらっていいでしょ」
「なんだ、吸うのか」

含みはなく、喫煙する姿を見たことがなかったからディエゴは言った。

「あなたと会ったときにはもうやめてたけど、昔は吸ってた。あら。タバコ吸う女は嫌いだったかしら?」

にも関わらずそんなことを口にする。しかも妙に楽しげにだ。ここで悲しそうにでもするなら可愛いものを、傲慢に流し目をつくるシーラ。自然とこういった振る舞いをするのは、たしかにひとつの才能かもしれない。

「んな野暮ったい趣味はねえよ。安心しろ」

売り言葉に買い言葉で返し、タバコの穂先に火をつけてやった。ディエゴはディエゴで、やり慣れた動作だ。
たちのぼる煙を夜風が揺らす。

「わたしは構わないから、いつもこんな隅っこで吸わなくてもいいのよ?」
「ん?ああ、おまえに気ぃつかってたのもあるが。あいつら二人とも吸わないからな、遠慮してたのが癖になってる。おかげで吸う量もずいぶん減ったよ」
「そう、シェアハウスしてたんだっけ」
「シェアハウスなんて大層なもんじゃない。マニーの家に俺とシドが転がりこんでただけだ」

そんな会話の合間に灰を落とし、彼女はふうと濁った息を吐く。

「にしても……。きついの吸ってるわね」

化粧っけのない顔をしかめているのが、らしくもなく無邪気だ。紅をささずとも赤い唇から、ディエゴは吸いさしをつまみ取った。

「まずいんなら返せ」

フィルターをくわえ直し、壁にもたれる。引き寄せるまでもなく、シーラもディエゴにもたれてぺたりと床に横座りした。
甘え方まで猫のように気まぐれな彼女。くっつきあった片腕をあげ、首すじに触れてみる。
忠義心は犬みたいだと思ったけどな――などと告白したら、またひっかかれるに違いない。

「ねえ」
「ん」
「わたしとルームシェアするのは、どう?」

口からタバコが外れそうになった。

「ルームシェア?」

かろうじて火をもみ消し、提案を噛みくだく。

「同棲しようってことか」
「言い方はどうでもいいわ」
「ここより広い部屋でだろ?」
「そうなるでしょうね」

率直にいって魅力的だ。いつの間にやら、独りで寝起きする生活を味気なく感じるようになっていた。申し出自体はもちろん、シーラがどことなく緊張していることがおもしろい。断られるのが不安なのだろうか?自惚れだとしても知ったことか。

「なら、ベランダがある部屋な」
「ベランダ?うん。洗濯物、干しやすいものね」
「洗濯物?はは。おまえなぁ」

いっぱしの主婦みたいだぞ。
似つかわしくない所帯じみた発言をからかいかけ、ストップをかけた。

「なによ?」
「なんでも。ない」

ディエゴは視線を泳がす。危なかった。きわどすぎる発言だろう、これこそ。
ルームシェアというのは、存外大きな一歩のようだ。意識しだすと自分まで緊張してきてしまった。

「タバコ」
「え?」
「タバコ。買ってくる」

顔を見られる前に立ち上がる。

「……わかったわ。頭、冷やしてきて」

将来を決定づけるのはもう少しあとで、もっとふさわしい場で。背を押してくれたのは、和やかな声だった。