くわえ煙草で戸を開けたディエゴは来客と顔を合わせるなりぐるりと体を反転させた。灰皿へ向かう余裕もない。まだ火を点けたばかりのそれを、簡素なキッチンスペースのシンクに投げ捨て水を出す。

「すまん。この時間に来るのはシドだと思った」
「ううん!わたしが急に来たんだもん。でも、誰か確認しないでドア開けるのは無用心よ?」

夕時の来訪客はエリーだった。ゆったりしたチュニックブラウス越しにも腹部が目立つ、出産を間近に控えた妊婦である。
部屋の換気をしにかかったディエゴを彼女はにこやかに引きとめた。

「すぐに行くから大丈夫。夕飯のお誘いに来ただけなの」
「そりゃありがたいけど。できれば電話で済ませてくれよ、俺がマニーにどやされる」
「なにそれ。うちは目と鼻の先じゃない」
「今の君は落ちたスプーン拾うのにだってあいつの許可が要るんだろ?」
「……ディエゴ。それシャレになってないわ。わたし、元気なのよ?重病人みたく扱われるのは嫌なのに」

夫妻どちらの気持ちも判る、その上どちらかといえば友人の方を支持してやりたい気持ちさえあるだけに、同意も否定も表しにくい。ディエゴは曖昧な笑みを浮かべて、整った眉をしかめるエリーの肩を押した。

「ま、それならさっさと行こう。シドが帰ってくる」
「え?それなら待ってましょうよ、案外もう帰ってきてたりは?」

単身者向けの二階建てアパートで、最も目を引くドアプレートを掲げた隣室。やんわり先に外へ押し出されたエリーはそこのチャイムを鳴らすも、ディエゴの読み通り部屋主はまだ帰宅していないようだ。

「わざわざ待ってなくても飛んでくる。いいから行こう」

シドが本当に不在か否かなどまるで関心無さそうに呼ばれ、エリーは小さく肩をすくめた。
狭い階段を数段下り、ディエゴは未だ階上に居る彼女へ片手を差し出す。

「手、貸そうか?」
「もう。平気です。お構いなく」
「この階段急だからな。その腹で下りるの見てると怖いんだよ」
「手すりがあるから!」

言い合いながらも結局、先導する彼は後ろ向きに階段を下りていく。
足元が視認し辛く不安定なのは事実なので、気づかいはとてもありがたかった。

「ディエゴ!エリー!」

よく知る快活な声色だ。望み通りに事が運ばなかったせいだろう、三段分ほど早く階段を下りきったディエゴが口元を歪めた。エリーは笑ってその横へ降り立ち、先を争って駆けてくる友人と弟たちに手を振り返す。

「おかえりなさい!みんな一緒だったの?」
「違うよ」
「シドとはそこで会っただけ」
「ちょっと!エリーはオレに訊いてるんだろ!?」

問いかけられた本人を差し置いて答える双子。不平を吠えるシドのため、慌ててエリーはもう一つ質問を作ってやる。

「これから夕飯なの。ね、シドもうちでごはん食べるでしょ?」
「そりゃーもちろん!食べないわけがありません」
「お前は遠慮ってもんを少しは覚えろ」

忠告は都合よく聞こえないようで。シドは少年たちにまじってエリーに取り付き、今夜のメニューなどを訊ね始めた。和気あいあいと談笑する四人。一歩引いた場所からそんな彼らの様子を眺め、困ったようにディエゴは微笑む。
平和ということばを光景で表現すればきっとこんな風になる。それの傍らに自分が存在することは、ひどく場違いのようにも感じられられた。胸の前で両腕を組む。切なさであるとか、幸福感であるとか――昔は知らなかった、そんなものを抱えるかのようだ。
ふいに。視線を落としていたディエゴの肩を、誰かが叩いた。

「ずいぶん中途半端な場所で騒いでるんだな」

ゆるりと首をねじ向ける。見慣れた呆れ顔に、息を吐く。

「あ、マニー!」
「おかえりなさい」
「……そっちもずいぶん、早いな?」

嬉しそうな顔が二つ、そうでもなさそうな顔が二つ。流し目に見やり揶揄をこめてディエゴは言うが、相手はものともせずに頷く。

「まぁな。お前が出かけるまでには帰ってこないと」
「なんで?ディエゴがいなくても、その頃にはオレが帰ってるから大丈夫だって」
「シド。お前は何の頭数にも入ってない」
「あはは言えてる!」
「頭数どころか居るとマイナス二人分だよね!」
「ちょっと。あんたたち」

冷たくあしらわれたシドを指差しけらけら笑う弟たちを、エリーは睨んだ。

「マニーもよ。酷いんだから。わたしはシドだって頼りにしてるからね」
「じゃあ訊くが、こいつが頼りになったためしが今までにあるか?」

頭を小突かれながらもシドは瞳を輝かせる。期待のまなざしで見つめられ、彼女は自信たっぷりに胸を張った。

「そんなのいくらでもあるじゃない。……ほら。えぇっと…。だからね?そ、その…………。…ああっ!?もうこんな時間!そろそろディナーにしないと大変っ!ね!?行くわよ準備手伝ってクラッシュ、エディ!」
「え、ちょっとねーちゃん!?」
「走ると危ないって!!」

さんざん煩悶してから、白々しい笑顔で白々しく左手首を確認してUターンしたエリー。
引っぱられていくクラッシュにたちまで取り残された格好になり、シドは呆然と口を開いた。

「……あれ?エリー、腕時計なんかつけてなかったよね?」
「さあ?馬鹿には見えない時計だったんじゃないか」
「はは。そうだぜきっと」

棒立ちになったシドの横を、マニーとディエゴはにやりと皮肉っぽく笑い合って素通りして行く。

「ちょ、待ってよ!それならオイラには見えなきゃおかしいじゃん!」

小走りに二人を追いかけ並んだ三人分の影。
夕陽色に染まるアスファルトを、いっぱいにのびて占有していた。