会社の最寄り駅で見つけた、懐かしい後ろ姿。通行人を縫って早足で歩み寄る。もしかすると声をかけるのは控えるべきだったのに、そのときはそんなこと考えつきもしなかった。

「マニー!」

友だちは足を止めて、ふり返り。それはそれはもう、大げさなほど驚いた顔をした。


僕らが共に通っていたのはいわゆる進学校で、一応は名門とも言われるようなところだった。相応に皆がおおむね品良くふるまっていたが、高校を大学進学のための通過点だと割り切っているような、そんなスタンスの生徒も多かったように思う。
そんな中で募集がかかった生徒会役員。立候補者はなかなか現れず、そこで白羽の矢を立てられた一人がマニーだった。
あれよと言う間にやつはその年度の副会長、僕は会計。委員会活動は予想より地味なもので、しかしそれなりのやりがいもあり、そこで僕らは仲よくなった。

文武両道。親しい旧友を褒めるにはちょっとばかり月並みにしろ、マニーはそんな四字熟語がぴったりのやつだった。やっかむ気にならないのはあいつが挫折を知らない天才肌じゃなくて、相応の努力家だからだろう。苦手な科目をよく教え合ったりしたものだ。
ハイティーンのその時分から落ち着いていて、バカ騒ぎする僕たちを一歩引いて見守っていたりして。まず級友たちからマニーの悪口を聞くようなことはなかったが、優等生然とした立ち居に、あのころからどことなく近寄りがたい雰囲気もあったのは否めない。
そんなかたぶつ生徒会役員と、ある女生徒との関係は学年じゃそこそこ有名だった。昼飯を一緒に食べているとき、帰り道並んで歩いているとき、あの二人を取り巻く空気は他と一線を画していた。あの子を見つめるマニーの眼は、あの子のためだけのものだった。
事あるごとに冷やかしていたら、一度おもいきり殴られたことがあったっけ。

幸いお互いが志望校に合格を果たすことができて、僕らは卒業してからも同じ大学へ進むことになった。彼女も一緒だ。マニーと離れたくない一心で猛勉強していたらしい。健気にも。
学部こそ違ったが僕たちの交流は続いたし、彼らも順調に交際を続けていた。けんからしいけんかすらしたことがないようだった。同級生の誰より早い彼らの結婚を、だれも意外には思わなかったはずだ。

出産祝いを贈ったのは結婚祝いの二年後か、そのくらいだっただろうか。こっちも早く結婚して子ども生まなきゃ割りに合わないよなぁ、なんて。そんな冗談を言って笑ったのを、つい昨日のことみたいに覚えてる。
夫婦、両親、家族という型に収まってから、ますます彼らは三人で幸福そうだった。

訃報を聞いたのはマニー本人からじゃなく、共通の友人からだった。
不幸な事故のあと、初めて僕がマニーに会えたのは、葬儀の場になってしまったのだ。
事故現場では半狂乱で泣き叫んでいたらしい――心ない噂話も耳に入っていたが、僕が見たあいつは冷静そのものだった。涙なんて一滴も流さないで、喪主として淡々と勤めを果たしていた。
当時の僕はマニーへどう接したのか、あまり覚えていない。ろくな言葉もかけてやれなかったに違いない。生者の慰めなんか少しもやつの救いにならないことは、瞭然だったから。

それから僕や友人たちは、足しげくマニーの元へ通うようになった。みんなあいつを心配していた。
様子を見ているかぎり、マニーは粛々とルーチンワークをこなしていた。起きて仕事に出かけて帰ってきて寝て起きて仕事に出かけて、精密な機械みたいに、人間としては壊れかけの日々を回していた。
飾ってあった花瓶や写真立て、細々したおもちゃ。いつもきらきらと僕の目を惹いた色鮮やかな物たちは、あの家の中から消えていた。がらんとした殺風景な一軒家は、独りでいるには広すぎただろうに。

僕らはその日もマニーを訪ねた。忘れもしない。よく晴れた週末の午後。天気がいいから気分転換に行こうと、僕らは口々に誘いかけ、笑いかけた。立ち直るきざしのないあいつを強引にでも連れ出そうと示し合わせて、でかい車まで用意して行った。酒でも飲んでバカ騒ぎして、つかの間でいい、悲しいことは忘れて、元気になってほしかった。怖いものなしだった学生時代みたいに。

『もう、放っておいてくれないか』

――マニーは。そう言った。真っ暗な目で。凍りついた僕らの姿は、そこに映っていなかった。
石頭で意地悪を言ったりもするけれど優しくて正義感が強くて、大切な相手には甘やかに微笑みかけたりもする、そんな、僕らが親しんだ旧友はもう、どこにもいなくなっていた。マニーは変わってしまった。
哀れんだやつがいた。ほとんど憤慨しているやつもいた。僕はといえば、マニーに恐れを感じるようになった。正確にはやつ自身ではなく、やつが沈んだ暗闇に。

その日を一つのきっかけに、マニーを除く僕らみんなもだんだん疎遠になっていった。怖いものなしだった学生時代とは違う。みんなが大人になって、生きるため懸命にならざるを得なくなってきていた。
仕事が上手くいかない。恋人と上手くいかない。体の具合が悪くなった。家族の具合が悪くなった。そういう問題に各々がぶち当たるようになっていた。
マニーと比べればありふれた苦難だったのかもしれない。だけどそれぞれが他者より自分の直面している現実を優先して、それに精一杯打ち込むことを、いったい誰が責められただろう?
もっとも、これは言い訳だ。僕も他の友人たちと同じく、海外への転勤を機に長いこと無沙汰をすることになった。
僕はマニーをあきらめていた。


「マニー!」

友だちは足を止めて、ふり返り。それはそれはもう、大げさなほど驚いた顔をした。

「こんなところで会うなんてなぁ!マニー、元気だったか?」

雑踏に紛れやすい背広姿も目に留められた。後ろ姿でもすぐに分かった。忘れるわけがない。

「お前……こっちに戻ってきてたのか」
「先月ね。帰ってきたばかりなんだ」
「そう、か」

マニーは僕から目を逸らして眉間にしわを寄せる。すごく懐かしい、表情といえる表情。うつろな陰が今のマニーからは感じ取れない。そうだった、こいつはこんな顔をして困るんだ。

「こんな場所で立ち話もな。メシでも食いながら話さないか?」

あまり能動的に遊ばないマニーを、僕はよくこうやって気軽に誘った。今なら昔みたいに話ができそうだと、楽観的な希望を抱く。しかしマニーはますます表情に困惑をにじませた。

「それは……。悪い。今日はこれから、約束があるんだ」
「ああ…………あっ、ああ、そうか!僕こそごめん、気が回らなくて」

あれから、もうずいぶん時間が経ったんだ。マニーに新しい大切な人ができていても不思議はないだろう。その可能性を想像もしていなかったあたりどうかしてる。あるいはもしかしたら、僕と夕飯を共にしたくないのか。

「おい。気なんか回さなくていい」

片手を腰にあててマニーがため息を吐く。落胆が伝わってしまったらしく、励ますような口調だった。

「勘違いするなよ?相手は男二人だぞ」
「え?彼女か奥さんじゃ」
「違う。居候というか、まぁ、同居人、だ」
「へぇ?」

言い方からして僕の知らない相手。つまり高校や大学が一緒の人間ではないようだ。男二人と同居……。意外だ。あの家ならば手狭ではないにせよ。

「連絡先は変わってないか?」
「うん、変わってない。住所は変わったけどさ。あとで時間できたら連絡してくれよ?久しぶりに話せるの、楽しみにしてるから」
「ああ。今度ゆっくりな。私も楽しみにしてる」

そうだ、自分のことを「私」なんて言い出して、笑ったこともあったっけ。おかしいが、生真面目なマニーにはぴったりだ。

「じゃあ。またな」
「……なぁ」
「ん?」

いい気分で立ち去ろうとしたのに、マニーはまた眉間をせばめている。

「――……すまなかった」

そんな、つらそうにするなよ。こっちまで淋しくなるじゃないか。

「なにが?どうして謝るんだよ?」

本当はわかってた。マニーがどうして謝罪するのか。でも、そんなのはなくていい。僕だっておまえをあきらめていたんだから。
言いよどむマニーに先回りした。

「なら、僕も。ごめんな」
「は?なにをお前まで」
「わからないよ。だけど謝りたくなった!」
「……変わらないな。海外で揉まれて、だいぶ成長したんだろうと思ったが」
「マニーもな?ちっとも変わってない。進歩ないんだな、僕ら」

笑い飛ばしてやれば、マニーもやわらかく声を揺らす。安心したみたいに。

「そうだな。私たちは私たちだ」

――そうだった。こいつはこんな顔をして、微笑むんだ。
この笑顔を取り戻してくれただれかを、僕は想った。ありったけの感謝をこめて。