(リクエスト:「たたかうべきとき」系統の話 より)

マニーとディエゴがけんかをしている。らしい。ぎすぎすした家庭内の空気に、心底シドはうんざりしていた。

「あのさぁ。そろそろディエゴと仲直りしなよ」

今夜もディエゴの帰宅前に眠ってしまうつもりだろうから悠長な前置きなどしていられない。二人だけの夕食後、単刀直入に要請した。ニュース番組に向けられていた物憂げな瞳がシドを見る。

「何あったのかも教えてくれないけど。一緒に住んでんだから、いつまでもこのままじゃだめだろ?」

手のひらでテーブルを叩き、力いっぱい主張した。実は前日には先がけてディエゴへ訴えをおこしてみたのだがまったく相手にしてもらえず、取りつく島もなかったのだ。この二人が口もきかなくなるようなけんか。厄介な経緯があるのは想像に難くないが、こんな現状を彼らが望んでいるはずはない。

「このままじゃだめ、か。お前までそんなことを言うんだな」
「マニー?」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ」

力なくマニーが独り言つ。浮かんだシニカルな笑みは、ひどく自嘲的でもあった。

「オレのせいなの?」

だってそういうふうにしか聞こえなかった。
すかさず問い返せばマニーは表情をこわばらせる。口元をおさえた仕草から、己の放言に対する後悔がありありとにじみ出ていた。

「……いいや。違う。お前のせいなんかじゃない」
「でも」
「悪かった。気にしないでくれ」

かみしめるように言い聞かせてからシドの頭をぐしゃと撫で、彼は居間を出て行ってしまう。
マニーは苦しげだった。
どうしてやることもできない自分と、自分を部外者にしておきたがる二人が歯がゆかった。弱くきいたエアコン。冷気のにおい。急に寒気におそわれ、シドはキッチンへ避難する。自分まで湿っぽく落ち込んだりはしたくない。気分転換にコンロ磨きをしてみても、しかし大して役には立たないのだった。


マニーの出社時間が早くなり、ディエゴが家に帰ってこない日があり。三人そろって在宅しているその夜は、しばらくぶりのものだった。
重苦しい空気に改善はないのだが、マニーもディエゴも今夜は一緒に家にいる。それは間違いない。露骨な避けあいにも疲れたのだろうか。ならば元に戻るのももうすぐだ。楽観的にもそう考え、シドは夕飯後あえて一人で部屋にいた。
正直なところ食卓を明るくしようと一人で懸命にはしゃいで空回りして、少々気疲れしていたせいもある。

「…ん?」

ふいとラグに寝転がったまま首をもたげた。自室内に異常は認められない。シドはカナル型イヤホンを両耳から外す。遮音が果たされなくなり、おかげで判った。階下から聞こえるのは怒声だ。
しかも悪いことに怒鳴っている誰かは、常日頃から口うるさい家主の方ではない。

「ディエゴ」

物騒な物音がしたのは、シドが部屋を飛び出た直後だった。

「――んで……。なんであんたは、こうなんだよ!」

リビングへ踏み入るなりの怒号に、二段抜かしの勢いで階段を駆け下りてきた足がすくむ。
肩をいからすディエゴの背中からは、爆ぜた憤怒が陽炎のように揺らめき、立ちのぼっているかのようだ。ソファのそばにくずおれているマニーが、上半身を片腕で支え起こす。その下唇が切れていた。
ディエゴがマニーを殴ったのだ。
一目で状況を把握はできても、有用な言葉が出てこない。ディエゴの脇を抜け怪我人に走り寄ったのは、ただ無心での行動だった。

「マニー!大丈夫!?」

顎のあたりを押さえながら、マニーは歪めた顔をシドから逸らす。結ばれた口の端は赤紫に変色しつつあった。腫れてしまうのは避けられまい。

「なぁディエゴ!ここまですることないだろ!」
「この期に及んで、まだ選ばないつもりか?」

自身を振り仰いで責めるシドには目もくれずディエゴは詰問する。

「こんなボンクラだったのかよ!?あんたは!」

愚弄を浴びせる語気はかつてないほどに荒く、容赦がない。しかし不思議に悲愴な調子でもあり、ディエゴもまた、苦しげなのだった。マニーは言い返さない。ディエゴを見返すことすらしないでいる。

「……肝心なことは、言わねえんだよな」

苛立ちに満ちた口調で吐き捨て、無造作にディエゴは身をひるがえした。最悪の直感。シドは叫んだ。

「待ってよ!どこ行くんだよっ」

必死で追いすがる。ディエゴの目的は居間の出口、ひいてはこの家の出口であろう。

「俺はこれ以上ここで生活する気はない。付き合いきれないんだよ。仲間ごっこにはな」
「ごっこ……?」

唖然と反復したのはシドのみだ。鋭くディエゴを睨め上げた瞳。瞬刻、閃いたのは鉄をも焼き切りそうな激情だった。けれどその熱はまた急速に沈み失せ、マニーは唇を閉ざし続ける。うつむく前髪に隠れ、やはりそこから思いをはかることは難しい。
マニーの様を斜眼に見下したディエゴはひときわ表情をかたく、冷たくした。

「シド」

ディエゴが呼ぶ。彼がようやく自分に向いてくれたことで、シドは希望を抱きそうになった。さし伸べられた手を取りかけた。

「シド。お前も俺と来い」
「え?」

硬直したシドの肩をつかみ、ディエゴはその顔をのぞき込む。

「俺にしろよ」

あまりにも遅かったのだが、ようやくシドは事態を根本から飲みこもうとしていた。
痛ましくも傷つけあう、二人のいさかいの要因を。

「マニー。そっちもいいかげん決めろ。これが最後だ。なぁ、俺なんかよりあんたは利口だ。……とっくに、理解してるんだろ?」

怒りや苛立ちはない。語尾をやわらかく響かせたのは、友への情けや慈しみだろう。

「――ディエゴ。私は」

かすれた声がこたえる。

「私は、このままで良かった」
「言ったよなマニー。俺は、お前と違う」

諭すようにディエゴがつぶやいた。

「ああ。そうだったな。私とお前は、全然ちがう」

浮かべられたシニカルな笑み。淋しく自嘲的だった。

「シド」

ふらと立ち上がり、マニーが呼ぶ。唇を手の甲で拭う仕草は彼らしからず気怠げだ。
ディエゴに肩をつかまれたまま、シドはマニーを顧みる。胸苦くて胸苦しくて、ここから逃げ出したいほどだった。

「行くな。お前は、ここにいろ」

不器用な命令形ではあるが、強制されているのではない。こいねがわれている。

「選ぶんだな。あんたも」
「ああ。私は、シドがほしい。お前に渡したくはない」
「……そうか。俺もだよ」

いつの間にかディエゴの手は肩から離れていたが、開放感などありはしない。違う違うと言うわりに、二人が交える微笑の痛々しさは瓜二つだった。彼らはたしかめあっている。救いのない明確さで、同じくシドも理解した。
もう二度と元には戻れない。