ディエゴは途方に暮れていた。
それというのも目の前の、ソファで呑気に眠りこけているシドのせい。 起こすべきか。このまま自分から起き出すまで、放っておいてやるべきか。 否、理性を通せば今すぐにでも起こすべきだと判ってはいるがそうする気になれず、それこそがまさに彼の頭を現在進行形で痛めつけているただ一つの理由なのだった。

「今に限って……」

二人きりでなければ、状況は異なるものになっていただろう。きっとマニーであればためらうことなくシドを起こし、部屋で眠るなりするよう促すはずだ。
つけっぱなしのテレビとローテーブルに積まれた数冊の漫画本、個包装されたチョコレート菓子。自分たちの帰宅をここで待っていたものの寝入ってしまったらしい。まったく、行動は子どもと変わらない。
寝苦しそうな様子に気づき、Tシャツがめくれて露出した腹を隠してやる。指先に触れた皮膚は湿っていた。ため息を吐いてエアコンをつけ、ディエゴはリビングからキッチンの窓を閉めて回った。
沈み停滞した空気が冷涼なものと入れ替わっていく。
目を閉じて深くその冷気を肺に取り込み、思考が落ち着いたことを注意深く認めてから、ディエゴは昏々と眠り続けるシドの傍らへ戻った。
ひどい寝相で片腕と片脚がソファから垂れているが、寝顔は先程よりずっと穏やかになっている。しどけなく開いた唇は、塞いで頂戴と誘っているようにも見えた。

誘惑に抗わず、ディエゴはゆっくりとソファの背もたれに片腕をついた。目元にかかった前髪を除けてやり、手の甲で顔の輪郭をなぞると、閉じたまぶたが小刻みに震えた。

「う、ー…」

かすかに寝顔が曇る。目を覚ましたかと期待にも近い感情を抱いたが、それ以上の反応は無いようだ。 ディエゴは落胆とも安堵ともつかない二度目のため息を吐き、頬から引きかけた手をシドの顔の脇についた。横たわる彼に覆い被さる形になったため、二人分の体重を一挙にかけられたクッションが沈み込む。

「起きろ、シド」

ひとつ、声をかけてみる。しかしシドのことだ、その程度では目覚めようとする気配は依然として見られない。 エアコンから吹く冷風、もらされる寝息、鼻腔をくすぐるチョコレートの匂い。
それらの実感だけがこの一時のすべてを支配している。
引きつけられるままゆるゆるとディエゴは、自分の半身を支える肘を折り曲げていった。

「――…ディエゴ?」

弛緩していたリビングの空気は、一息でたやすく張り詰めた。

「……。マニー、帰ったのか」

唖然とした様子で佇立している家主を、体を起こしたディエゴは悠然と見やる。

「ディエゴ…お前、いま、なにを……」
「してたように見える?」

未だすやすやと眠り込んでいるシドから身体を離す。開け放しのドアから流れてくる熱気が不快だった。居間から廊下に出たディエゴは扉を閉じ、狼狽の色を隠せないマニーへ首を傾けてみせた。

「気になるか」
「……ディエゴ、私は」

言いよどむ仕草に神経が尖る。確かめたい本音は、そうやって継ぎを当てたようなものではない。

「どうして気にする必要がある?……あいつが自分の、子ども代わりだからか?」

ディエゴが語尾までを発するのと、その襟元をマニーが掴むのとが同時だった。壁に背を押し付けられ、気道が不自由になった苦痛に顔をしかめる。

「あいつを――シドを、そんな目で、見たことはない」

今の発言。ディエゴならその残酷さを誰より理解しているはずだ。まっすぐ冷ややかに燃える瞳は、どんな言葉より雄弁にマニーの怒りを語っている。

「――…なら、どんな目であいつを見てるんだ」

しぼり出すように訊ねるが、強いまなざしは揺るがない。近くなった距離をもっても鳶色の眼底に沈んだ思いは見透かせそうになかった。どれだけそうして互いの眼を見ていたものか。己を拘束する手を振りほどく際聞こえた、震えた息。どちらのものだったかは判らない。

「俺もあんたも欲しいものは同じだ。人のいい保護者であり続けたいなら、そうしろよ」

相手を笑えた義理ではあるまいが笑ってやりたかった。けれどもやはり、笑えはしなかった。語調と同じ冷淡さだけが、ディエゴの横顔を彩っている。

「ただ、俺は違う」

図らずも時は満ちたのだ。きっぱりとした、それはある種の宣言だった。

「……お前の欲しいものを私も欲しがるなんてことは、有り得ない。本当に違うからな。私たちは」

苦しげな表情を消し去ったマニーのまなざしは変わらず頑なで、想いを宿すことを拒んでいる。
それは本心からの言葉なのか?
ふたたび問うことはせず、ディエゴは静かに瞳を伏せる。マニーもそれ以上は語ることなく知らぬ間に握りしめていた拳から、そっと力をぬいた。