娘は眠っているのだろう。今日はひとりで自分を出迎えた妻へと柔和に挨拶を返しかけたマニーは、しかしリビングからひょっこり顔を出した隻眼の男を見るなり海溝のようなしわを眉間に刻んだ。 最愛溺愛盲愛鍾愛、そんな語を尽くしても足りない妻子の迎えがあれば仕事の疲れなど彼方へ吹っ飛んでしまうはずが、今やその疲労は倍増して肩に圧しかかってこようとしている。 「よう!ダンナのおかえりか!」 「…出迎えどうも。何でうちにいるんだ」 陽気に手を挙げるバックには相も変わらず屈託がない。それとは裏腹、不愉快さもあらわに訊ねる夫の横でエリーはやれやれと嘆息をもらす。 「マニー?シャワーを直しに来てくれたのよ。バックは」 五日ほど前から家の湯沸かしは調子が悪く、昨夜に至ってついにシャワーからお湯が一滴たりとも出なくなってしまった。夏場だったのがせめてもの救いだ。各自冷水で味気ない入浴を済ませ、明日にでも修理を頼むと確かエリーは言っていた。 「業者さんへ連絡する前にね、一度バックに見てもらおうと思って」 「室外機から水が漏れてたんでな、部品を換えた。ひとまず安心だ」 「部品を換えた?あんたが?」 それは果たして素人判断で可能な修理だったのか、必要な部品が例えばそこらのホームセンターなどで手に入る代物だったのか、マニーには検討すらつかなかった。元来バックは素性も得体もよく知れない人間である。ただ、困ったときに頼れる存在であるとマニーの「周囲」はそろって認識しているらしい。間違ってもマニー自身の認識ではなく。 「わたしたちじゃ原因も判らなかったのに!すごく助かった」 心強そうにバックを見るエリー。このさい彼が何者たるかなんてどうでもいい。問題は湧き上がってくる敗北感らしきものなのだが何を勘違いしたのか、寄ってきたバックは人のいい笑顔でマニーの肩を叩く。 「安心しろって!技術料は負けといてやるからよ」 「そうか悪いな。出張費は支払わせてもらうから、さっさと帰ってくれ」 「そんなわけにはいかないの。お礼代わりに、今日の夕飯はバックの好きなものばっかりにするんだから」 「え?」 夕飯を共にしたくないのはもちろん、バックの好物ばかりとなれば十中八九は肉とか肉とか肉、こってりした料理ばかりで食卓が埋まる。油っこいものをあまり好まないマニーとはこんな点でも彼はそりが合わないのだ。ちなみにマニーが妻へ食べ物の好き嫌いを主張したことや彼女の手料理を残したこと、ましてけちを付けたことなどは一度もない。 「ってわけだ、馳走になるな。久しぶりに他のやつらとも会いてぇからな。今日も来るんだろ?」 「ええ。シドもディエゴもね」 「ガキどもは?」 「今日はちょっと遅くなるって。でも急いで帰ってくると思う。バックに会いたがってたわよ?あの二人」 微笑んでエプロンを翻したエリー。 バックは器用に片眉を上げ、蚊帳の外にぽつねんと置かれている家主を顧みた。 「おいおい…。そう睨むなよ」 「睨んでない」 「娘か姪っ子みたいなもんだぞエリーちゃんは?なぁマニーちゃん」 「誰がエリーちゃんだ誰がマニーちゃんだ。そんなことは知ってる」 気安く肩を抱こうとしてくる腕をうんざりしながら払いのけ、マニーは洗面所に向かう。と、絶妙なバッドタイミングで、家のチャイムが高らかに鳴った。 「おぉ、さっそくご到着か?」 「あ!?待てバック!勝手に……!」 「いらっしゃ〜い!!」 振り返ってマニーはとっさに手を伸ばしたが、触れるには相手から距離を取りすぎていた。出るな、と止める間を与えず来客が何者か確かめもせず、豪快に叫んでバックは扉を開いた。 「うお、…なんだバック?来てたのか」 訪客が身内以外の、例えばご近所さんとかだったらどうするんだまともな応対もできないのかとのマニーの不安は、幸いにして取り越し苦労で済んだ。騒がしく出迎えられ、戸口で軽く半身を引いたのはディエゴだ。 「あらディエゴちゃんおかえりなさぁい!今日は先にお食事?お風呂?それとも…。もう、寝る?」 「…………また、何の遊びを始めた?」 「あぁ、さっきこーやってそっちの夫婦がイチャついてたんでな。真似してみた」 「いちゃ!?つくか!そんなもの!!」 自分にするのと同じように気安くディエゴの肩を抱いてしなを作り、次には笑いながらとんでもない冗談を口にするバック。ディエゴはディエゴでまんざらでもなさそうに――あくまでマニーの主観による――微苦笑していたりするものだから、立つ瀬がない。 「……」 つい力いっぱい否定してしまったことがばからしく思え、マニーは今度こそ振り返らずに洗面所へと向かっていった。 「おいバック。あんまりからかってやるなよ」 咎めたディエゴを一目する左だけの碧眼。楽しそうに細まっているものの、みじんも悪意は内包していない。 「はは。ああまでツンケンされると面白くってなぁ」 「面白いね…。趣味が悪いぜ?あんた」 「そうか?ガキどももシドも、判るって言ってたが」 純粋な親愛感の表現であるだけ、悪戯好きな他三人より遥かにマシだとバックはいえる。しかしマニーがそれらの違いを識別できるわけもなく。頭をかいて下顎をつき出す動作にはやはりどこまでも屈託がない。どう言ってやるべきか。考えてみるが、ディエゴにできることはあまり多くなさそうだった。 「――あいつもいいかげん気の毒だな」 同情してやっても、それを当人は喜ばないだろうが。 |